shigusa_t’s diary

当たり前の疑問を口に出せる人になりたい。

「意識が高い」の分類

「意識が高い」という形容がここ数年で一気に市民権を得たような気がする。

ネットの人なら把握してるだろうけど、この言葉は婉曲な侮蔑語としての役割を持っている。「意識が高いなあ」という感想は、「高尚そうなことをやって悦に浸っているなあ」と読み替えることができる。

人によってこの言葉の使い方に結構ブレがあって、純粋な褒め言葉としての用法から上記のような辛辣な皮肉としての用法まで、観測範囲だけでもさまざまな運用がなされているように思う。
もはや気軽に使える表現ではなくなってしまった感があって、誤解があると面倒だし普段はこの言葉を使わないようにしている。

この「意識が高い」の皮肉的用法については、それが本来非難しているものを踏まえれば、ある程度理解はできる。(だからといって自分もそれに同調しようとは思わないが)
ただ、その非難が、「意識が高い」という言葉に紐づけて行われてしまうことには危険を感じている。
というのも、「意識が高い」が揶揄するところの「残念な意識の高さ」とは別に、「真っ当な意識の高さ」を持っている人もいるから。

ここでいう「残念な意識の高さ」と「真っ当な意識の高さ」は分かる人には自然と区別して理解されている気がするけど、実際何がこの二者を切り分けているのかを少し考えてみた。

「残念な意識の高さ」と「真っ当な意識の高さ」を切り分ける要素

大きく分けて3つあるように思う。

1. 形だけなぞっているか、目的意識を持っているか

一つの主要な条件は、形だけなぞっているか、それとも目的意識を持っているかという点。

「意識高い系」の象徴的なスタイルとしてよく揶揄されるのが、「スタバでMac」という組み合わせ。
大学入学と同時に理由もなくMacを買って、意味もなくスターバックスに持ち込んでこれ見よがしに開いて、さも忙しそうに、まるで見せつけるかのように作業をする人たち。
この手の人を遠巻きに観測しながら人々は彼らを意識が高いなあと評して笑うわけだけど、ここには確かに揶揄されるに足る理由が存在しているような気がする。

根本的な問題は、彼らの行為に必然性がないこと。
「真っ当な意識の高さ」を持っている人が自然に「スタバでMac」にたどり着くことはあって、そこにはそれなりの必然性がある。
彼らがMacを使うのは、例えばiPhoneアプリの開発にあたってMac環境の確保が必要だと知っているから。アプリを作って公開したいという彼らの目的上、そういうマシンを買うことは自然だ。
彼らがスタバで作業するのは、たとえばチームメンバーとの待ち合わせの際に時間を有効活用したいから。あるいは人の目がある方が集中できる質だから。出先で居座れて無線LAN環境があるのはスタバぐらいだから。このあたりは何でもいいけど、ともかくその行動を導くだけの動機がきちんとある。

こういう理由があるなら、どこで何を使って作業しようが何もおかしなことはない。個人の目的に向かって真っ当に前進していて、そのために効率のいいやりかたを選んでいるだけだ。この手の行為は本人も納得ずくなので堂々としている。

それを傍目に見て、何か格好よさのようなものを感じて、第三者が本質を理解せず形だけ真似るから滑稽とされてしまう。いわゆる「中二病」の揶揄にもよく似ていると思う。
「本質を理解せずに形だけ真似して失敗する」というのは古典的な落語でも良く出てくるパターンで、これを笑うのは日本人の感覚としては自然なことなのかもしれない。時そばだってそういう筋になっている。

しかし、そういう笑い方が存在するのは確かだとしても、創作上の登場人物ではない、あくまで真剣にやっている個人に対して冷笑で応じる態度が望ましいかは別問題ではある。これについては本題とずれるので後述。

2. そこにナルシシズムがあるか

もう一つはナルシシズムの有無。

「スタバでMac」という行為自体になにか優越感のようなものを感じてひけらかしている場合、残念な方に見られがちだと思われる。
これみよがしにSNSでシェアしたり、さも自慢げに会話の中に持ち込んだりすると「ああその行為を自分に酔ってやってるんだな」と思われることだろう。
「すごいでしょ」だけならまだかわいいものだけど、「褒めて褒めて」や「お前もこうしろ」がくっついてくると実害まで生じる。

これも手段として自然に「スタバでMac」を選ぶ人には見られない行動。
彼らは仕事の効率的な遂行上仕方なくそれを選んでいるので、別に言いふらすようなことではない。
この種の自己陶酔を見ると、前述した必要に迫られてやってる側の人は見ていていたたまれなくなるのでは。

3. そこに実績があるか

分かりやすいところで、ちゃんと結果を出しているかというのがある。
高級な道具を使って高尚な目的を掲げて何かやっているように見えるけど、その実何も意味のある成果を残せていない場合、「意識が高い(だけ)」というレッテルを貼られがちになる。

「意識が高い」の何がまずいか

この3つの基準で両極端に振ってみると、「意識が高い」というレッテルは「見よう見まねで自己陶酔しながら虚業をしている人」と「目的に向かって謙虚に努力しながら実績を上げている人」の両方に刺さることになる。
前者はまあ困った人なんだけど、後者は単純に優秀な人であって非難されるべきところはどこにもない。
にもかかわらず、前者に対する皮肉としての「意識が高い」が勢いを持つにつれて、後者の人々に対しても適用されてしまっているよう思える。

揶揄としての「意識が高い」を後者の人々に使うのはそれこそ本質を理解せずに形だけなぞっているだけなんだけど、二者が表面上同じように見えるためか、結構な頻度で見かける。
目的意識をもってやってる人はそのぐらいではへこたれないだろうけど、それでも不快な気持ちにはなるんじゃないだろうか。
それで優秀な人たちが萎縮してしまうのは、端的に言って損失だと思う。

もはや「意識が高い」という形容は侮蔑語化してきているし、上のようなリスクもあるので離れたほうがいいと思う。
真っ当に努力している人には別のラベルが与えられるべきだと思うし、この二者をきちんと呼び分ける呼称を作れないかと考えてたけど、結局適当そうなものは思いつかなかった。
呼び分けるということは前者だけをターゲットにした新しい揶揄語を作るということになりかねないし、そういうのは趣味じゃないのでやめておく。

そもそも真剣にやっている個人に冷笑で応じるのはよいことなのか

ここから先は私見なんだけど、この記事でいうところの「残念な意識の高さ」も、それと並べた「中二病」や、本質を理解せず形だけなぞる行為も、決して悪いことではないと思う。
本質を理解しないで形だけなぞるという行為は、すでにその道でやっていく感覚を身につけた人から見れば確かに滑稽なのかもしれない。そこに自己陶酔があったり、その上なんの実績も出ていなかったりすると、なおのことおかしく見えるだろう。

ただ、それはある個人が試行錯誤しながらその道に入っていく過程としては自然な方法なんじゃないだろうか。
武術の入門で、師匠に言われるがままに型の練習をすることは決して無意味ではない。はじめは理解を伴わずにただ体を動かしているだけでも、様々な型を学び、それが身につくにつれて、徐々にそれらに共通する本質に肉薄していくことができる。
自己陶酔も、言い換えてみれば憧れと同一化願望だし、そこに自己の誇大化があったとしても、それが練習へのモチベーションにつながっているなら悪くはない。
実績なんて言うのは最たるもので、誰だって新しい分野に入っていけば最初は無実績だ。

全くとんちんかんな方向に走っているとか、できていないのに分かった気になっているとか、すでに熟練している側からは色々ツッコミどころはあるのかもしれない。
突っ込むのにも労力がいるから、その都度まともに相手をしろとは言わない。どうでも良い他人なら、分かってないなと思いながらも放置することはあるだろう。
それから、残念ながら狭い世界の中で全く聞く耳を持たないところまで増長してしまっているケースがあって、そういう場合はどうしようもない。
しかし、そうでないなら、それとなく正しい方向を教えてあげるとか、暖かい目で見守るとか、そういう態度で接したほうがいいんじゃないだろうか。

新しいことを始めて、なにかとんちんかんなことを言ってしまったら笑われる。だからやらない。自分で自信を持てることだけやって、他のことには踏み入らない。
こういうスタンスの人は結構いるんだけど、それが個人の選択ならともかく、周りの空気に流されてそうなっているならもったいない。

「本質を理解せず形だけなぞる行為」に対する冷笑が根付いているという話をしたけど、これは言い換えればチャレンジに対する冷たい目線ということになる。
この部分を意識的に乗り越えていかないと、新しいものや面白いものが生まれてこない土壌が定着してしまうんじゃないかと思う。

まだ結果が出ていない人たちを引きずり下ろしたり下に見るよりは、後押しできる人になりたい。
後押しというのは無思考にやれと言い放つことじゃなくて、知っている情報は提供して、誤りと分かることは正して、貸せる範囲の手は貸して。
そこにあるリスクは説明するけど、それでも前に進もうとする姿勢だけは全肯定すること。

どんな分野についても、ある程度継続していれば習熟してくるし、習熟すると多かれ少なかれ、後からくる人を上から見てしまうことはままある。
でも実際そこに存在するのは年季の差だけで、適性とか才能とか、それ以外の条件がどうなっているかは分からない。のめり込んでる期間を捨象すればフラットな関係の同好の士でしかない。

いつも適切な目線でいられるかっこいい大人になりたいなと思う。

親指に熱湯をかけてしまって軽いやけどをした。
水ぶくれになる程度の深さはあるけど、大きさがせいぜい一円玉の半分程度なのでまあ取るに足らない軽症だ。

怪我の程度としてはなんてことはないんだけど、これがまた集中を阻害する。こんなちっぽけな面積の皮膚が、絶え間なく頭に痛覚を送り込んでくる。
わかってるから。別に知らせなくていいから。損傷したのは気づいてるし対処の仕方も理解してるし、2週間ぐらいかけて水泡が膨れてちぢんで剥がれて綺麗な皮膚に戻るのも知ってるから、そのシグナル送信をやめてくれと言いたくなる。不要な痛覚がマニュアル操作で切れたら人類の総幸福量はずいぶん上がるんじゃないかとか、くだらないことを考え始める。

自分は生まれてこの方特に大病をしたこともなくずっと健康体なんだけど、これは普段意識こそしていないが貴重な財産であり、相対的に見るととても幸せなことなんだろうなと思う。
今自分を苛むこの痛覚が、冷やせば治まる指一本からではなく、体中から絶え間なく不可避なものとして送られてくる状態を考えるとぞっとする。
しかしそれは決して架空の痛みではなくて、現実に病床に横たわるどこかの誰かが甘受している痛みに他ならない。そして、自分がいずれそうならないとも限らない。
このちっぽけな痛みで思考が乱されるんだから、全身からこれが飛んできたら自分はごく簡単に狂うことだろう。

ジョブズは有名な講演で「自分が明日死ぬなら今どうするかを考えることが大事だ」と語り、そこからさほど期間をおかずに実際大病で死んでしまった。
明日死ぬという低確率な仮定のもとに意思決定するのはナンセンスだと思うので、彼の後追いをするつもりはない。
まあでももう少しスパンを伸ばして5年10年としてみると、自分の体に何かガタがきて、思考活動すらおぼつかなくなる可能性というのは無視できるほど低くはないんだな、と思った。

ブログを書き始めて分かったけど、自分はものを考えることが好きだ。そして今、その考えることを、限られた余暇の時間とはいえ高い自由度で快適に行える環境を持っている。そういう意味ではかなり理想的な状況にある。
この小さな幸せが何か逃れようのないものによって奪われてしまう前に、悔いを残さないようにやれるだけのことをやっておきたい。

似非科学と信仰について

いわゆるニセ科学がなぜ嫌われるのかという話。

自然に対するあらゆる主張は、「科学」と「信仰」の2種類で色分けできるのではないかと思う。

「科学」によって示されるのは、妥当な手続きによって示された、ある体系の中での事実。これは一般に現実においても、事実であるかあるいは事実とみなして支障がない。基本的に語り手の属性を無視して受け取ることができる。

「信仰」によって示されるのは、ある個人が科学的な裏付けなしに真実とみなしている主張。現実においては正しいことも、誤っていることもある。検証されていないので正しいとも間違っているとも断言できない。言ったもの勝ちである。

「科学」と「信仰」は裏表の関係にある。
ニュートン万有引力をただ口で主張したとき、それは信仰である。彼がどれほど偉大な人間であろうが、検証されていない限り主張は信仰でしかあり得ない。科学的な検証によって確かめたとき、それは科学に格上げされる。そして、もしそれが科学によって否定されることがあれば、また信仰へと格下げされることになる。

科学が積み上げるもの

似非科学が何故問題かというと、あれは科学という矛盾したラベルがついた信仰であるから。

水を崇める宗教があろうが細菌を万能とする宗教があろうが別段おかしな話ではない。単なるアニミズムへの回帰である。
自然科学に対する自然信仰は、科学が定着する以前の時代においては広く人間社会を支えてきた原初的な枠組みだ。 それを信じること自体は信教の自由の観点から守られるべきであると言ってもよい。

しかし、彼らはそれを科学と考え、一般論として語ったり教育の場に持ち込む。ここに相容れない溝が生まれる。
科学者は先人たちが積み上げてきた膨大な検証の連鎖に支えられた地盤に立ち、そうした場を守り抜く決意の元に彼らの仕事をしているし、良識ある一般市民はそうした科学の恩恵を享受して生きている。 そこに科学と名乗る信仰が入り込んでくると、その上にものを積み上げる営みが立ちゆかなくなる。

新たな発見があって、それによって既存の科学の地盤が揺らぎ、立て直しを余儀なくされることはままある。それ自体はなんの問題もない。
ただ、それはあくまで地盤を揺るがすそれが、やはり検証によって確かめられていて、新たな地盤としての強度が保証されている限りにおいての話だ。

似非科学が持ち込むものは、いずれも検証に堪えない。人々が石材で積み上げた堅牢な土台の上に、突如豆腐で屋台骨を組み始めるようなものがほとんどで、仮説としての強度すらおぼつかない。
にもかかわらず、それが「いい話」に見えるという一点のみを頼りに人々の支持を得て、さも頑丈な石材かのように偽装して紛れ込ませようとしてくる。
ぱっと見て石と区別がつかないそれは、そこに豆腐が置かれていると分かっているうちはいいのだけど、いずれ風化し忘れ去られて誰かがその上に石を積み始めるようなことがあれば、どこかで悲しい結末に繋がりうる。

石を積むことは決して平坦な道のりではなく、一人の人間が生涯を費やして取り組む大仕事である。未来の優秀な科学者が豆腐に足を取られて一生を棒に振ることを科学者コミュニティは望まない。それは人類の未来に対する損失にすらなりうる。

だから彼らは決して似非科学を認めない。認めるわけにはいかない。

科学と宗教のあいだ

科学と宗教は、突き詰めていくと本質的には共存可能なものであるように思う。
意識と現象の捉え方であったり死生観であったり、科学の枠組みではどうしても検証不能なものが存在するので、それに対する人間のスタンスは信仰レベルで決めなくてはいけない。

死んだら意識は無になるのか、何か別の生き物に転生するのか、この人生というVRのシミュレーションが終わって上の世界で本当の私が目覚めるのか。
この問題について、科学は何ら合理的な結論を出せない。主観的世界の観測者としての人間は一度しか死ねないので、再現性が確保できないからだ。
そこは本質的に宗教ないし個人の独立した信仰がカバーする必要がある場所であり、科学の外である。そこでどんな思想が跋扈しようが、科学としては特に困ることはない。

現行のメジャーな宗教は、科学以前に生まれたが故に突き詰められていない。大抵は科学と衝突する教義を持っている。
私は宗教を持たないので、実際そうした教義をどのように科学とすり合わせているのかはよく知らないが、少なくともそうした宗教は科学を名乗らず、曖昧に濁しているはずだ。科学との真っ向勝負を避けることが、科学全盛の現代において、宗教的なものが存続するための最終防衛線なのではないかと思う。

年末だし今年読んで面白かったブログの棚卸しでも。と思ってたんだけどやめた。
何かジャンルを絞ってその道を突っ走ってるブログを紹介するならいいんだけど、今自分が購読してるブログはジャンル不定の雑記系ブログ、特にその人が日々考えてることをそのままアウトプットしたようなものが結構多い。
これを評論してしまうとブロガーさんの人格の品評会のような感じになりそうで、それはさすがによろしくない気がする。
基本的にはベタ褒めになるんだろうけど、それでも。心の中にとどめておくことにする。

 

最近たまにテレビを見ていると、外国人を引っ張ってきて日本の良い所を褒め称えさせる番組がよく放送されている。
あれは作り手が受け手としての中高年層のことをよく観察して、「こうすればいい気分になってくれる」「こうすれば喜んでくれる」という意図のもとに練り上げられた奉仕としての表現だ。
いわゆる職業ブロガーの人が書く記事もそういう要素がある。「こうすればGoogleに持ち上げてもらえる」とか「こうすればSNSでシェアしてもらえる」とか、なにか意図を持って書いている。
それらはいずれも、程度の差はあれ大勢の人の注目を集めることが目的で、最終的には金銭的利益につながっていく。

そういう目的を掲げれば、自ずとやることは決まってくる。
そういう番組がウケるとわかればそういう要素を突っ込んだ番組を作ればいいし、そういうブログが稼げてるならそういう施策をすればいい。
もっともマスである層を効率よく惹きつける方法のバリエーションなんてたかが知れているので、みんな似たような方向に走っていくことになる。

社会を回していくのはそういう営みなので、どこを見てもその手の合理的な集客法は転がっている。90人の賞賛を取って10人の軽蔑を切り捨てる。それを繰り返して作られた理想上の平均人に対してマーケティングする。削り落とすべき10%のご機嫌を取っても食っていけない。
結果として大勢を賛美して気持ちよくさせるキャバクラコンテンツや、誰もが抱く悩みに蜘蛛の糸をぶらさげる釣り堀コンテンツが生まれることになる。

 

これは利益を出すためには当然のことだし理解はできる。だけど、そういうものを見ても作っても何も面白くないというか。もういい加減嫌になってしまった。
マスに刺しつつきちんと中身を両立させる職人芸をやってる人は尊敬するけど、無難に受け手を気持ちよくさせることを突き詰めたコンテンツの物量に勝てていない感じがあって切なくなる。

翻ってブログやTwitterを見ていると、それはどう見ても90%には刺さらないだろ、というような、しかし熱量のあるテキストを発信している人たちがいる。
彼らは別に利益を追い求める必要がないので、9割にそっぽを向かれようが特に問題はない。
だから好き勝手に、あるいは深く考えず、生まれてくる言葉をそのままに書き出している。それがものすごく魅力的に見える。
彼らのテキストは、少なくとも利益のために恣意的に紡がれたものではない。それだけで尊くすら見えてくる。

そうした中に、90%に届けるテクニックを身につけて、より高いステージを目指して突き進んでいく人たちがいる。
彼らは高らかに「ブログで稼ぐ」と宣言して、広告を貼り、商品を紹介し、たまにその筆力を効率よく振るって人を集め、高みを目指していく。
その高みの先にあるものが何かと言えば、奉仕と欺瞞と意図と妥協と、それに結びついた利益である。
それは不可逆な枷となり、彼らが紡ぐテキストを変質させていくことだろう。

 

無制約な世界で振るわれる才気の発露を好ましく感じる自分の嗜好は、きっと贅沢に過ぎるのだろうなと思う。
元来そうしたものは、人生における有限のモラトリアムでのみ生じる刹那的な輝きなのかもしれない。

振り返れば自分が興味を持つのは、同人界隈、技術界隈、学術界隈、2ch界隈やブロゴスフィアなど、いずれも利益構造に縛られることなく比較的自由に思考を走らせることができる場だった。
自分はそういう場に惹かれていて、しかしそれは容易に見失いがちなもので、また非可逆に喪失しうるものだという気付きを記して、2015年の筆を置きたい。

2015年の私的な振り返り

月並みに今年一年を振り返ってみる。匿名でやっている都合上、心の中の動きとブログの話しか書けないのがあれだけど。

今年の思考の動きの概括

年始めはかなり鬱々としていて、自己認識の見直しみたいなことを延々やっていた。
これまで努力のために自己否定をして、こんなダメな自分は人より頑張らないと人並みにならないというロジックで這い上がろうとしてたんだけど、ここ数年でそれに限界が来て、徐々に軌道修正していた。今年になってようやく着地した感じ。

「なんとなく」の排除と徹底的に考えること

ひとまず何事についても納得がいくまで事前に徹底的に考えておくべきだ、という結論に達した。
自分は瞬時に妥当な答えを出すタイプの頭の使い方がとても苦手で、この土俵で人と張り合うのは恐らく困難。逆に徹底的に考えてどこかにメモっておくスタイルだとそこそこいい線をいくらしいことがわかった。

ある物事に対して自分が思考を放棄したなら、それは軽蔑するべきことだ。けど、自分の論理を突き詰めて、合理に合理を重ねて辿り着いた回答があるならば、それは自分にとっての真実だ。後で何らかの知見があって誤りだと気づいたとしても、それは「その時点の自分」にとっての真実であることに疑いはない。
他ならぬ自分が「そう考えた」ことは、どうしようもなく事実だし、その思考こそが自分だ。
インタフェースとしての自分の身体性の至らなさを嫌いになることはあっても、自分の思考回路だけは認めてやるべきだ。

と書いてあった。

生きやすさ方向への舵取り

環境に適応できるように自分を追い詰める形のブーストは、結局環境に規定されて進む先が決まってしまう。そもそも思考的にマイノリティである自分は受け身型の戦略だと死ぬということに気づいた。

大事なのは、自分は一体何をつかみ取りたいのかということ。言い換えれば、自分の幸せは何かということ。

色々考えて方向性を決めて、多少自分のポリシーに反していたり体面的にどうかと思われる方向でも行動に移してみることにした。匿名でどうでもいい思考を垂れ流すブログを作ってみるとか。
色々やってみて、生きやすくなったぶん気を配る余裕ができた。結果的に身の回りの環境も良くなった。

等身大の自己の見直し

属性やラベルを取っ払った自分がどうなっているのかとか、逆にどんな属性を保有しているのかとか。
比較するときにある観点で完全上位・完全下位だとして思考停止しがちだったけど、もうすこし解像度を高くすると見えてくるものもあった。

ネット上のアカウントのパーティション切り

公的なアカウントと私的なアカウントを一緒にしたらダメ。きちんと線を引くべきだと思った。

このブログについて

10月末からこのブログを始めたわけだけど、これは非常によかった。
内心の素直な感想を書き留めることはこれまでも続けてたけど、外部に向けて書き出してみて得られるものは多かった。

ただ外に向けて公開することを前提にテキストを書いているとそれだけで偏る部分もあるな、と感じた。
匿名でやっていても書きづらいことというのはやはり出てくるので、手元に留めるテキストを書く作業も疎かにせず継続したほうが良さそう。
今年のテキストを一通り見なおしても、まとまってるかはともかく内容的に濃いのは年始めのローカルに書き溜めたテキストだった。

ブログ運営について

読みの方針として、

  • 全文読んで素直に面白かったと感じた記事にしかスターやブクマはつけない
  • 数記事読んで面白いと感じたブログしか読者登録しない
  • 読者登録したブログは基本的に全記事ちゃんと読む
  • 新規開拓はホッテントリはてブ新着よりもはてなブログ全記事新着を重視

書きの方針として、

  • 書きたいことを書きたいように書く
  • 1日max1記事、週平均2~3記事ぐらいのペースを維持
  • アクセス稼ぎやSEO、ブクマ数は無視
  • 読んでくれる方・他ブロガーとの交流の間口はなるべく広くとる

という感じでやってきた。このあたりの方針は基本的に成功だったと思う。
著名なブロガーを購読するよりは遥かに中身のあるタイムラインができたし、息苦しさを感じることなく活動できた気がする。

上記方針は現状維持として、来年は今まで興味のなかった分野まで読みを広げることと、もう少し凝った綺麗な文章を書くことに注力していきたい。

「あるくない?」と方言の醸成について

若手のブロガーさんの文章の中に、「あるくない?」という言葉が用いられているのを目撃して驚いた。

「~ってあるくない? みんなはどう思う?」のような使い方がされている。どうやら「あるんじゃない?」と等価な表現らしい。

初めは方言の類かと思っていたが、調べてみると「若者言葉」と評されている。

ブログでこの表現を用いていた方も、標準語の書き言葉の中でこの言葉を使っているあたり、この用法で利用可能だと認識しているようだ。

この表現はいったいどこから来たのだろう。

  • 「~って良くない?」という言い方から類推すると、「良い」のように形容詞として「ある」を用いて、活用して「あるく」になっているのか。
  • あるいは、「あるっぽくない?」の短縮形なのか。
  • 「なくない?」を単純に裏返したのか。

ざっと考えただけでも、このような言い回しが生じ得る遠因は確かに色々とありそうだ。

あるくない? - Twitter検索

検索すると出るわ出るわ。もはや全国的に一般的な用法なのかもしれない。
これだけ定着しているなら、数年後には辞書に載ってしまう可能性もありそうだ。

個人的には誤用から始まる言葉の移り変わりは許容するべきだと考えているんだけど、文法的にも改変されているこのケースはなかなかに衝撃的だった。
上記で列挙したリンクの中には「きれいくない」「きれいかった」のような表現まで取り上げられているが、ここまで来ると幼児語が矯正されずに育ってしまっただけのような印象も受ける。
そういう言葉を用いることが必ずしも悪いとは思わないが、やはり違和感は拭えない。

誤用の伝播場としてのネット・SNS

なぜこのような誤用が全国的に広まるに至ったかだけど、これはインターネット、特にSNSの特性が大きく影響しているように思う。

インターネット以前、思考をテキストに落とし込んで広く外部に公開するためには、出版の形を通らざるを得なかった。 そこには編集者がいたし、校正の作業が必ずあった。市場原理が働くことから、書き手の筆力やリテラシーも一定以上が担保されていたとみていいだろう。

しかし、今となっては誰もが公的に文章を発信できる。端末が利用可能な状況にさえあれば、文法的に未熟な小学生であろうとも、だ。
もし小中高生が日常的に触れるSNS上で飛び交うテキストに、「あるくない」「きれいかった」が含まれているとどうなるか。恐らく、読み手はそのような日本語が存在するのだと学習することだろう。
いずれ読み手もその表現を使い始める。ネット上の閉鎖的なサークルの中には編集者もいなければ大人すらもいない。その誤用はクラスタ内に標準語として蔓延することになる。

こうした誤用は、これまでも至る所で生じていたのではないかと思う。 ただ、会話の中でそうした誤用が行われたとしても、それが会話というインタフェースで行われている以上、その瞬間に物理的に接近した人々にしか伝播することはない。 そして、そのサークルが時間経過で瓦解した後は、各々の成長過程の中でそれが誤用であることに気づき、自分一人意地を張って使い続けるわけにもいかないから、自ら修正していくことになる。

しかし、テキストについてはその限りではない。誤用は用いられた時点でその場に残り、それが時間と距離を超えて無数の人々に広がっていくことになる。 当人がその誤用を使うことをやめたとしても、テキストは残って誰かに影響を与え続ける。そのテキストを目にする人たちは、まだそれが利用可能な表現であると認識しうる。
これは、偶然に生じた誤用が伝播していく速度、およびその広まり方の強度や誤用の生存確率が大幅に高まることを意味する。

現在では、SNSを流れるテキストばかり読み、本も新聞も滅多に読まないという人々も多い。 こうした場合、SNS上で得た語彙が誤用であると気づくことすら困難になる。
誤用が異常な拡散速度で広まり、彼らにとっての標準語として一度定着した後、一生涯にわたってそれを修正する機会が得られないことすらありうる、ということになる。

今や、誰かが誤用を始めてしまうと、歯止めが効かない世界になっているのではないだろうか。

クラスタ方言の醸成

これまで方言は、ある地域性によって長期間にわたって醸成されるものだった。物理的距離によって隔離された集団の中で、長い時を経て言い間違えやなまりが蓄積することで生まれてきたとも考えられる。

しかし、これからはインターネット上のクラスタによって、世代単位で誤用が伝播され急速に醸成されることになるかもしれない。

属するクラスタによって誤用が蔓延する確率は異なるように思う。具体的には、校正の入ったテキストに幼少期からどれだけ触れるかによって色分けされるのではないだろうか。

この構図は、イギリスにおける社会階級別の言葉遣いの存在にも似ているような気がする。

イギリスの階級と言葉遣い - Jinkawiki

時代が進み、技術が進歩したがゆえに、こうした言葉の断絶が現代日本においても再生産されてしまう可能性がある。

誰もが発信できる場としてのネットがあるのが当たり前の時代になってきているわけだけど、この言論環境の変化は思った以上に色々なしわ寄せを生むかもしれないなと思った。

同性婚問題と婚姻のかたちについて

なぜ前回の記事を書いたかというと、「LGBTの先」を論じた記事があったから。

『LGBTの次は「ポリアモリー」』とのこと。まあ「多様な愛の形」から考えるとそうなるわな… - 見えない道場本舗

あとはこのあたりのやりとりも同じトピック。

タブーとは何か。 - Togetterまとめ
【アメリカ】同性婚認めたから「一夫多妻も認めろ」と結婚届提出 ~コリア-さんらは、拒否された場合は訴訟を起こす構え [H27/7/4] : アメリカンニュースログブログ

いくつかある論点を箇条書きすると以下。

同姓婚が許容されるなら:

  1. 一夫多妻制、一妻多夫制も許されるべきではないか
  2. 重婚も許されるべきではないか
  3. 近親婚も許されるべきではないか
  4. 低年齢での結婚も許されるべきではないか
  5. 人間以外との結婚も許されるべきではないか

というような問題提起。全く考えたことがなかったので結構な衝撃を受けた。
前回の記事を鑑みて正確に言うと、「LGBTの先」というより「同性婚の先」の話。
こうしたものも同性婚と同様に許されるべきかどうか。

結論から言うと、同性婚が許容されるという前提なら、3までは許されてしまうと思う。
4と5については「成熟した意思を持った主体の相互の同意」という前提が崩れるので棄却できそうだ。

例のごとく個人としては上の5つのどの結婚の形も志向できそうにないけど、なるべくフェアな視点からこれら全てについて考察していく。

同性婚に関する自分の考え

同性婚に関しての自分の立場を要約しておくと、

  • 同性が支えあって暮らしていく構図は認められるべき
  • 法律や諸制度をすぐに変えるのは困難なので、過渡期の対応のために別制度で吸収する必要はあるかもしれない
  • 最終的には結婚というラベルを獲得できるとよいと思う

  • 同性が子供を持つことは機能不全な家庭が生じてしまう懸念から個人の感情としてはおすすめしにくい

  • 子供を幸せにできる目算がきちんと立っているならOK
  • 最終的には社会的理解や同性により子育ての仕方が確立されて一般的になればいいと思う

という感じ。理想論としては全肯定されるべきだと考えている。
子供を持つことについては、前記事でも述べたようにLGBTの権利とは別軸で安易には祝福できないんだけど、これは本題とは関係ないので脇に置く。
比較対象をあまり知らないのでなんとも言えないが、いろいろ留保があるぶん考え方としては保守的な方なのかもしれない。

これを踏まえて、上記5項目について考えていく。

一夫多妻、一妻多夫や重婚について(1と2)

これについては、生物としてのあり方という意味では同性婚よりも自然ですらある。
子孫を残すためには少なくとも男女の交配が必要で、これは複数人による婚姻であっても問題無く満たすことができる。
子育ての面でも、一人の子供に対してより手厚く支援ができる。経済的にも合理的だ。(相続的には合理的でないかもしれないが)

問題があるとすれば、一対多の関係の一にあたる側が、多に対して十分に愛情や関心を注ぎきちんと養えるのかという問題。
それだけキャパシティのある人がなかなかいないということなんだけど、もし実際に存在するなら特に止める必要はない。
多側を結婚で拘束したままろくに相手もせず放置というのが最悪のシナリオにはなるが、法が発達している現在ではそうなれば相応の対処ができそうだ。

結婚の形を一組の男女に限らないとするのであれば、これは認められて然るべきなんじゃないかと思う。もちろん全員の合意のもとでの話ではあるが。
「一組の男女」という制約の中で、旧習に囚われていて合理性を欠くのは「男女」よりもむしろ「一組」なのではないかと思うのだけど、どうだろうか。

ただまあ双方がこれを望むケースが十分な数出てこないことには議論の俎上に上げられないし、多側からの需要がどれだけあるかは疑問だ。
この形にこだわる人が十分な数出てこなければ現状維持でずるずる行ってしまう気はする。しかし、突き詰めていけばいつかは成立する考え方だろう。

近親婚について(3)

近親交配の可否については遺伝学的な理由付けが必要で、専門的な知識がないと論じられないように思う。
ここでは仮に近親交配自体は有害であり忌避されるべきものと考える。(あくまで仮定であって事実は定かではない)

そういう仮定をおいたとしても、同性婚の例にならうと、近親交配の問題と近親婚の成立はまた別という見方ができる。
つまり、子供を持てるかは別として、愛しあう二人なら結婚自体は可能であろう、という枠組みに近親婚も組み込むことができる。
こうすると構図的には同性婚と全く同じになり、当事者がお互い望んでさえいれば近親婚だけ不可とする理由はない。

子供についても、同性婚が養子をとったり精子提供や代理出産で持つことができるとするのであれば、近親婚にも同じことが言えてしまう。
結婚だけ兄弟や親子で行い、子供は性交渉とは別の形で得れば遺伝学的な問題はなくなる。

X親等以内で結婚可否が決まるという不統一な基準が世界中に散在していたのは今までも結構怪しいところがあった。
恐らく理屈付けとしては血の近さによる遺伝の問題が主となっているはずなので、子供の持ち方さえ工夫すれば通用しなくなるのではないだろうか。

成立可能とするために必要なロジックが同性婚と全く同じであるという点で、一夫多妻問題より現状の世界の問題意識に触れやすいかもしれない。
こちらも声を上げる人の少なさによって定着するまでに時間がかかるかもしれないが、いつかは認められることのように思う。

低年齢での結婚について(4)

これは二つの観点で問題がある。
ひとつは幼さゆえに十分な責任能力がないこと。もう一つは子供を持つことまで考えると母体への負担と育児能力の面で問題が生じること。

言い換えると、精神的に早熟していて、金銭的に子供を養える状態にある男児なら結婚してもよいということになるのかもしれない。
しかしこれは極論であって、社会的には画一な精神的および身体的成熟の基準を設ける必要があり、それが現在の民法上の結婚可能年齢ということなんだろう。
このような理由で結婚に年齢制限をつけることには基本的に賛成する。

ただ、現在日本において男女の結婚可能年齢が異なること、およびそれが成人の基準年齢と食い違っていることが適切かどうかは議論の余地があるかもしれない。
女性のほうが精神的に早熟だというのは感覚的にはよくわかるが、現在の男女平等が叫ばれる社会でここに年齢差をつけっぱなしというのはどうにも違和感がある。

人間以外との結婚について(5)

これは5つのうちで最も個人的に理解しにくいのだけど、冗談の類ではなく動物や無機物の類との結婚を主張するケースもあるらしい。
人間でない側には人間と同等の意思がないと考えるなら、双方の合意が成り立っていないので棄却できると考えてよいと思う。

私はこの動物(物体)と一生寄り添っていくのだと表明することは個人の自由なので、その範囲で行えばいいのではないだろうか。

同姓婚を認めることの意味

合理性とは別のところでなんとなく成り立っていた文化というのはいくつもあるが、それを合理性で切り開くことはパンドラの箱を開けるようなものである。
私はどちらかというと希望が詰まった箱があるなら開けるべきだという考え方を持っているが、開けたからにはそれによって降りかかる災厄にも向き合うべきだとも考えている。

同姓婚という形を認めることは、実質的には「これから社会として婚姻のタブーを切り崩していきますよ」という意思表示に他ならないのだと思う。
その過程で、結婚の形は一組の男女に限るとしてきた制約を取り払う。これはすなわち、その他全ての例外をまとめて相手取ることにつながっていく。

マイノリティ問題を解決するにあたっては公平性を錦の御旗にして旧制度を切り崩していく必要があるわけだけど、その際に声の大きい勢力ばかりに囚われるとまた新たなマイノリティを生むことになる。それはロジックの破綻にも繋がる。

マジョリティを相手にするのは簡単で、一番目立つ存在を均質化して相手にすればそれで済む。 マイノリティ問題ではそれができないから難しい。どういう人々が補集合の中に点在していて、どのような現実に生きているのかを把握することは多数を見るよりも圧倒的に困難だ。

頭を柔らかくして、なるべく多くの種類の抑圧を想定して、それらに統一的な基準で答えを出していかなければいけない。
今回取り上げた5つのケースを想定しただけでも、それは随分時間のかかる仕事だし、相応の覚悟がいるのだなということがよくわかった。