shigusa_t’s diary

当たり前の疑問を口に出せる人になりたい。

優しさの分類

「優しさ」と称されるものには、質的に異なるいくつかの区分があるように思う。
ここではそれを、弱い優しさ、強い優しさ、身勝手な優しさの三類型に分けて考えたい。

優しさの三類型

弱い優しさ

弱い優しさは、他人を思いやる。その裏返しとして、自らを防衛する。
他人に優しくして、他人を助けて、迷惑をかけないようにして、礼儀正しくして、真面目にして。
和を乱さないようにする。利益をもたらそうとする。怒らせないようにする。褒められようとする。

その本質は、自分が他人に嫌われないようにすること、他人によって自分の価値を確認することに繋がっている。
これは自らを受け手に、他人を与え手に割り振ることと等しい。

強い優しさ

強い優しさは、他人に何かを与える。その裏返しとして、自らの幸せを追求する。
他人に親切にして、物事を教えて、出来事を共有して、冗談で笑わせて。
感謝されるのが嬉しい。自分の思いが伝わることが嬉しい。笑い合えることが楽しい。

その本質は、自分から他人にはたらきかけること、他人と与え合うことへの期待に繋がっている。
この場合、自らは与え手であり、他人もまた与え手であることを想定している。

身勝手な優しさ

強すぎて身勝手な優しさもある。
与えること、それによって認めてもらうことが嬉しいばかりで、相手からの反応や働きかけは捨象してしまうようなケース。
相手が楽しそうにしていても、そうでなくてもただ与える。

それが相手にとってありがたいこともあるし、ありがた迷惑にしかならないこともある。
この場合は自分は与え手であり、相手は従順な受け手であることを期待している。

弱さと身勝手の相互関係

弱い優しさは波風を立てないけれど、相互の働きかけを期待している相手とは噛み合わないし、弱い優しさ同士ではそもそもコミュニケーションが発生しない。

弱い優しさと噛み合うのは、身勝手な優しさを持つ相手のみになる。
しかも受け手の褒められたい願望と、送り手の認められたい願望が相互に補完し合わなくてはいけない。
受け手は褒められながら気持ちの良い相づちを打ち、送り手は話し相手を適切に褒め続ける必要がある。
そうでなければ、どちらかのエネルギーが切れたときに破綻する。

弱い優しさ、身勝手な優しさはどちらも自分自身で完結していない。相手がいなければ自分自身が満たされないような形になっている。

だから、一人では寂しいし、誰かと結びつくと固定的な役割を要求し、そして運良く利害が一致しても共依存関係に落ちてしまう。

強い優しさの前提条件

強い優しさを実現するためには、まず自分で自分自身を肯定する必要がある。

なぜなら、ナチュラルな状態で自己が満たされていなければ、どの道外部の誰かを利用して、受けることか与えることで自分を満たさざるを得ないから。 そうなれば、弱さか身勝手さのいずれかに陥ることになる。

褒められようとけなされようと、認めてもらおうと無視されようと、自分だけは自分を褒め、自分だけは自分を認めるようにしなくてはいけない。
そこまで行って初めて優しさに芯が通り、角も取れる。

それぞれ自分が満たされているから、他人の状態に気を配る心の余裕が生まれる。
誰かが心の調子を崩したとき、心に余裕のある人がそれを埋める。その人が調子を崩せば、また余裕がある人がそれを埋める。

そうやって、独り立ちした精神同士が、揺れ動きながら相互補完している世界。それが、真に成熟した大人同士の交流なんだろうと思う。

真に優しくあるために

環境によって、気質によって、この自我が十分に満たされないことがある。

発達過程で十分に成功経験を積めば、人間は自然に自らを満たせるようにできている。
統計的に見ても、一般に人間は自分自身が好きであるし、平均的に他人より多少は優秀であると自己認識するものらしい。

一方で事実として、自分のように、生まれてこの方自分を嫌い続け、端から見ればある種の成功と捉えられるような経験があっても、自分に自信を持てないような人間も存在する。
そうなると、嫌われずにいたい、褒められて認められたい、つまり外部から自信を得たいという心の構造から、弱い優しさを実現することに腐心するようになる。

一度自己否定と弱い優しさの追求のループに入ると、上に示したような仕組みで、他者とコミュニケーションを取ることが困難になる。
欠落を埋めるために弱い優しさを実行する人間は、一見親切であるように見えて、無意識下で利己的に動いてしまう。 他人から正のストロークを受けることでなんとか自分を維持し、負のストロークにはなるべく触れないように立ち回る。

その結果、成熟した交流を期待する相手からは、いくら注いでも何も返ってこない存在として忌避されるようになっていく。

優しくありたいのであれば、まず自分を認め、自分によって満たされることが必要なのだろう。 そうなって初めて、真に他者を思いやる心の余裕が生じる。

 

少し前の手記を手直ししてまとめてみた。今はもう少し違う書き方もできそうだけど、あえて当時の言葉のまま書き出している。
今読み直しても、論旨としては比較的正しいことを言っているように思える。
人に優しくある者が賞賛される勧善懲悪の物語ばかりを素直に受け取って育った結果、弱い優しさにどっぷり嵌り込んだ幼少期だった。