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shigusa_t’s diary

当たり前の疑問を口に出せる人になりたい。

認識のための比較と自己分析のあり方について

ここまで書いたいくつかの記事を読み直していて思ったこと。 どうも、自分にはある要素とある要素を対置してものを書きたがる癖があるらしい。

「日本語(で動く人々)」と「数学語(で動く人々)」とか、「花」と「蛾」とか。
あるいは、「弱い優しさ」「強い優しさ」「身勝手な優しさ」で3分割してみたりとか。

どうしてこういう書き方に向かいがちなのかを考えてみたけど、ある概念をよりはっきりとした形で読み取れるようにしたいという気持ちの現れなのかな、と思う。
そもそも、ある概念を明確なものとして把握するためには、何か別の概念との差異を発見していく必要があるのではないだろうか。

概念と制約、比較

6面のサイコロについて、単に「サイコロの目」といったとき、そこには6通りの選択肢がある。
「奇数の」という制限をつけると3通りになり、さらに「3以上の」と制限すれば2通りになる。

同様に、一般的な表現においても、たとえば「花」、「赤い花」、「赤いチューリップの花」のように制約を加えるたびに、読み手が想像しうるものの幅は狭まっていく。

ある大まかな概念を指す言明に対して、〜であるとか、〜でないという制約を加えていくと、そのたびに指し示すものの自由度は減少していくということがわかる。
言い換えれば、制約を加えるほどに、その言葉が指し示す概念は精緻になっていくということだ。

人があるものと比べて何かを論じるのは、きっと概念というものがこのようにして精緻化されるからだと思う。

われわれが何かをこうである、というとき、そこには確かにそれでないものの存在が仮定されている。

人が赤を赤と認識できるのは、赤以外の色を知っていて、他の色と異なるものとして受け取っているからである。
もし世界が全て赤に満たされていれば、我々は赤を赤と認識できず、赤という概念自体も生まれなかったはずだ。

人は比較を繰り返し、何かと何かを分けていく。
赤という色と、赤でない色。そこからさらに青という色と、赤でも青でもない色。
区別が成されるたびにラベルが生まれ、人は新たな概念を見いだす。

分けることによって本質を析出させる営みがすなわち「分析」なのだろう。
分析の結果得られたよりたしかなものを、さらに分析の材料として用いることで、我々は認識を固めていく。

「私」を明らかにするために

正しく認識を固めるためには、比較対象もまた確かである必要がある。

ここで扱いたいのは「私」という概念。つまり、自己分析だ。
例えば誰かが自分自身を知りたいと願うとき、自分以外と比べることで自分の特徴を明確にすることは上記の論からして自然だろう。

「私はみんなと比べてかわいくない」「私はみんなと比べて勉強ができない」「私はみんなと比べてコミュニケーション能力がない」

このような自己分析が成立するためには、比較対象としての「みんな」が明らかでなければいけない。
「みんな」とは誰なのか。本当に「みんな」がその側面で自分を上回っているのか。
ここで認知に偏りがあると、「私」を明らかにするどころか、「私」に対する誤った認識を補強してしまうことになる。
そういう意味で、誰かと比較して自身を明らかにする方法は危険をはらむ。

しかし、もし本当に「みんな」がある側面で「私」を上回っていたとしたら、「私」がその見方で比較劣位なのは確かである。
それは、そういう個性があるということだ。痛みを伴うとしても、正しく「私」を認識するために必要な比較であるといえる。

こうした概念、認識、分析の本質から考えると、よく言われる「人と比べるな」といった主張には疑問の余地が残る。
認識という営みが比べることの上に成っている以上、追求すべきは正しく妥当な「比べ方」なのではないだろうか。

比べ方のフレームワーク

大事なのは比べ方である。
例えば「私」のように、容易には比べられず、でも明確に把握したい概念に対してどのように向き合っていくべきか。

何かをよりはっきりと認識するためには、それでないものを並べてそれとどう違うのかを列挙すればよい。
つまり、ある観点での差を具体化して、それによって区別すればよい、というのがここまでの話。

となると、並べるそれでないものは、

  • 比較したい側面以外の条件が同じであり
  • そのものとしてはっきり認識されているもの

がよいということになる。

「みんな」との比較が困難なのは、そもそも「みんな」がはっきりと認識できないからだ。

こういうとき、統計では平均値や中央値などの代表値を用いて集団の特性を明らかにし、それを論じる。
例えば「自分の身長はみんなより高いのか」を知りたければ、同年代同性別の日本人の身長の平均値と比べるのが一つの妥当な方法になる。

データをきちんと利用できれば、平均的な日本人男性より有意に身長が高い、というような結論に至ることもできる。
それは自らを表現しうる特徴の一つとして受け入れることができるだろう。

このような比べ方で処理できるものについては、恐らくこれで十分だろうと思う。

比較困難なもの

問題は「自分のコミュニケーション能力はみんなより高いのか」というような問いである。
この分析は極めて困難だ。簡単に手に入る統計があるわけではないし、そもそもコミュニケーション能力の定義と定量化ができない。

ある人とある人を比べて、どちらが真にコミュニケーション能力が高いかを明言できるだろうか。
口数が多いAさんか、傾聴ができるBさんか。何を基準にするべきかで変わってくるし、その基準の中でもどこに比重を置くかで異なる。

あるいは見るからに寡黙なCさんが、気を許せるごく一部の相手にだけ抜群の会話力を発揮している可能性だってある。
実際の能力と外から見える能力は異なっているかもしれない。

二者の比較すら困難なのに、無数にいる「みんな」と「私」を比較しろというのはどだい無理な話である。
しかし、分析できないからわからないといって終わらせられる問題でも当然ない。「私」は私にとって唯一自由になる財産であるからだ。

古今東西の哲学者が「私」とは何か、どうあるべきかということに延々と向き合ってきたのも、これが分析材料を得ることすら困難であり、 かつ人間が人間であるゆえに向き合わなければならない問いであるということに無関係ではないだろう。

この問題に対して比較で向きあおうにも、どう頑張っても自身の身近な誰か、あるいは目立つところに出てきている誰かとの比較しか行えないし、その比較は表面的なものに留まる。
人生経験を経て、様々な人の存在を知ることができれば自ずと比較対象は増えるが、それが偏っていないという保証は誰にもできない。

あなたが劣っているように感じるのは、あなたのそばに優れた人ばかりがいるからではないのか。あるいは優れていると感じるのは、あなたの周りに大した人間がいないからではないか。
こう問われた時、誰も否定することはできないだろう。正しく「みんな」と「私」を認識することは、誰にとっても不可能だ。

曖昧な私との向き合い方

このどうしようもない曖昧さに対してはどう向き合っていけばいいのだろうか。

偏っていようがいまいが、「私は~である」という仮説を主観的に得て生きていくしかないのではないか、と現時点では考えている。
そして、経験からそれを常に修正しながらバランスをとっていく。それが視界の偏りに起因する可能性があると知っていても、そうせざるを得ない。

どうしようもなく不確かで曖昧な比較を繰り返して分析し、仮説を検証しながら前に進んでいくしかない。
これ以上のことは誰にもできないし、正しさの保証を得ることは不可能だ。

逆に言えば、なにか自我を確立していて立派に見える他者がいたとしても、その自己認識は仮説の範囲を出ていないことになる。
みな主観的に得た仮説を頼りに生きている。これは事実である。「私は客観的に自己を見ることができる」という言明は、ある意味では嘘にしかなり得ない。

しかし、曖昧であるからこそ生まれてくるものがあるのではないか、とも思う。

まるで自分の身長と平均身長との比較のように、自分の知能は平均以下で、コミュニケーション能力は平均よりやや上で、見た目は中の中で、今から死ぬまでに~の分野で成功できる確率はX%であると分析可能になったとしたら、どうだろう。
「私」はそういうものだとどこかで分かりきってしまったとして、その後の人生は楽しめるのだろうか。
そうは思えない。明白な限界が見えているのに突き進もうとする人は多くないはずだ。身長を理由にバレーボール選手を諦めるように、気づいてしまった瞬間に匙を投げるだろう。

比較不能な概念との向き合い方

我々は自己を正しく認識できないからこそ、夢を抱き、突き進み、挫折して学習し、また新たな方向へと歩んでいく。
だからこそドラマが生まれ、物語が生まれる。予測不能な動きが生まれてきて、留まることなく社会が動いていく。
そういう人間の営みは、非効率でこそあるが、私には美しいものに見える。

比較不能な概念に対しては、何らかの仮説を立てなければいけないが、その仮説は少し大胆にすぎるぐらいが良いのではないかと思う。
そして、貪欲に他者の仮説を集めて、無意味とわかっていても比較し、曖昧な推論を繰り返して行くのが望ましい。そう考えている。

ふわふわとした頼りない地盤の上でも、なるべく多くの情報を集めて推論を行えば、無思考よりは比較的有意味な結論を導ける。
人間の知性というものはそうあるのだと信じたい。

これはまさに主観であり、個人の無根拠な一意見にすぎない。まとまっていないしあやふやな仮説を放り出したような形になってしまった。
自分としてもあまり納得がいく結論にはなっていないが、どうやらこの種の問題にはこのような形でこそ向き合う必要があるようだ。