shigusa_t’s diary

当たり前の疑問を口に出せる人になりたい。

似非科学と信仰について

いわゆるニセ科学がなぜ嫌われるのかという話。

自然に対するあらゆる主張は、「科学」と「信仰」の2種類で色分けできるのではないかと思う。

「科学」によって示されるのは、妥当な手続きによって示された、ある体系の中での事実。これは一般に現実においても、事実であるかあるいは事実とみなして支障がない。基本的に語り手の属性を無視して受け取ることができる。

「信仰」によって示されるのは、ある個人が科学的な裏付けなしに真実とみなしている主張。現実においては正しいことも、誤っていることもある。検証されていないので正しいとも間違っているとも断言できない。言ったもの勝ちである。

「科学」と「信仰」は裏表の関係にある。
ニュートン万有引力をただ口で主張したとき、それは信仰である。彼がどれほど偉大な人間であろうが、検証されていない限り主張は信仰でしかあり得ない。科学的な検証によって確かめたとき、それは科学に格上げされる。そして、もしそれが科学によって否定されることがあれば、また信仰へと格下げされることになる。

科学が積み上げるもの

似非科学が何故問題かというと、あれは科学という矛盾したラベルがついた信仰であるから。

水を崇める宗教があろうが細菌を万能とする宗教があろうが別段おかしな話ではない。単なるアニミズムへの回帰である。
自然科学に対する自然信仰は、科学が定着する以前の時代においては広く人間社会を支えてきた原初的な枠組みだ。 それを信じること自体は信教の自由の観点から守られるべきであると言ってもよい。

しかし、彼らはそれを科学と考え、一般論として語ったり教育の場に持ち込む。ここに相容れない溝が生まれる。
科学者は先人たちが積み上げてきた膨大な検証の連鎖に支えられた地盤に立ち、そうした場を守り抜く決意の元に彼らの仕事をしているし、良識ある一般市民はそうした科学の恩恵を享受して生きている。 そこに科学と名乗る信仰が入り込んでくると、その上にものを積み上げる営みが立ちゆかなくなる。

新たな発見があって、それによって既存の科学の地盤が揺らぎ、立て直しを余儀なくされることはままある。それ自体はなんの問題もない。
ただ、それはあくまで地盤を揺るがすそれが、やはり検証によって確かめられていて、新たな地盤としての強度が保証されている限りにおいての話だ。

似非科学が持ち込むものは、いずれも検証に堪えない。人々が石材で積み上げた堅牢な土台の上に、突如豆腐で屋台骨を組み始めるようなものがほとんどで、仮説としての強度すらおぼつかない。
にもかかわらず、それが「いい話」に見えるという一点のみを頼りに人々の支持を得て、さも頑丈な石材かのように偽装して紛れ込ませようとしてくる。
ぱっと見て石と区別がつかないそれは、そこに豆腐が置かれていると分かっているうちはいいのだけど、いずれ風化し忘れ去られて誰かがその上に石を積み始めるようなことがあれば、どこかで悲しい結末に繋がりうる。

石を積むことは決して平坦な道のりではなく、一人の人間が生涯を費やして取り組む大仕事である。未来の優秀な科学者が豆腐に足を取られて一生を棒に振ることを科学者コミュニティは望まない。それは人類の未来に対する損失にすらなりうる。

だから彼らは決して似非科学を認めない。認めるわけにはいかない。

科学と宗教のあいだ

科学と宗教は、突き詰めていくと本質的には共存可能なものであるように思う。
意識と現象の捉え方であったり死生観であったり、科学の枠組みではどうしても検証不能なものが存在するので、それに対する人間のスタンスは信仰レベルで決めなくてはいけない。

死んだら意識は無になるのか、何か別の生き物に転生するのか、この人生というVRのシミュレーションが終わって上の世界で本当の私が目覚めるのか。
この問題について、科学は何ら合理的な結論を出せない。主観的世界の観測者としての人間は一度しか死ねないので、再現性が確保できないからだ。
そこは本質的に宗教ないし個人の独立した信仰がカバーする必要がある場所であり、科学の外である。そこでどんな思想が跋扈しようが、科学としては特に困ることはない。

現行のメジャーな宗教は、科学以前に生まれたが故に突き詰められていない。大抵は科学と衝突する教義を持っている。
私は宗教を持たないので、実際そうした教義をどのように科学とすり合わせているのかはよく知らないが、少なくともそうした宗教は科学を名乗らず、曖昧に濁しているはずだ。科学との真っ向勝負を避けることが、科学全盛の現代において、宗教的なものが存続するための最終防衛線なのではないかと思う。