shigusa_t’s diary

当たり前の疑問を口に出せる人になりたい。

自分は意識的に無宗教のスタンスをとっていて、神も心霊も信じてないし、葬式や初詣に出るのは会社でスーツを着る程度の致し方ないしきたりだと思ってる。顰蹙を買わないなら全部キャンセルしたい。
仏壇を捨てようが聖書を焼こうがお守りを切り刻もうがなんとも思わない。必要なときにやれと言われたらなんの罪悪感もなしにやると思う。もちろんそれを信仰してる人の心情には配慮したいから、現実にはよほどのことが無い限り避けはするけど。

ただ、無宗教的スタンスはとっているとはいえ、もし死んだじいちゃんの位牌を踏めと言われたらそれだけは勘弁してくれと頭を下げる気がする。正直想像するのも嫌だ。
別にその中にじいちゃんは居ないし今更自分が何をしようと亡くなってしまった結果は変わらないんだけど、この「それだけは絶対にダメだ」という抵抗感はどこから降ってくるんだろうか。
こう考えると自分も全くの無宗教でもないのかなあと思ってしまう。
ただこれが位牌でなくても写真とか生前の愛用品とかでも嫌だから、仏教的かというとそうでもない気はする。

ここ最近チェックしてるブログのいくつかを読んでると、たまに宗教チックな話を観測する。(ロジカルな人にキリスト教信者が多いのは何故なんだろう)
普段の雑記を読んでる間は特になんとも思わないんだけど、たまに信仰が絡む話題が出てくると自分にとっては前提でもなんでもない前提が「常識だよね?」ぐらいの気軽さで飛んできて面食らうことがある。
正直全く理解できないこともあるんだけど、それを自分の場合でいう「位牌を踏め」に置き換えて考えてみると、ああそういうこともありえるな、と最近は納得できるようになってきた。
宗教的な戦争が生じる理由もよく分かっていなかったけど、複数の相異なる宗教があって、お互いの「位牌を踏め」が相容れなくなった場合を考えてみると、そのぐらいのエネルギーは生じうるのかもしれない。

宗教の教義というのは全く無根拠なところから生じてくるものが多いけど、その空虚からこれだけのエネルギーが生じてくるというのはなんとも不思議だなと思う。
そういう意味での宗教の有用さは理解できるし、自分は他人の宗教には肯定的である。特に科学じゃどうしようもないことというのは実際あるので、そこに対するスタンスをまとめて外から拾ってくるというのはありだと思う。

ただ、このブログでは本音しか書かないことにしているので、自分がそういうものを基本的には全く信じないし表面上の迎合しかしてないということは書いてしまう。気を悪くする人がいたら申し訳ない。