shigusa_t’s diary

当たり前の疑問を口に出せる人になりたい。

他人の舵に触れてはいけない

自分が好きなのはものごとにきちんと向き合って悩んでいける人で、言いかえれば自分の頭でものごとを考えていける人だ。
そうした人々に相対する場合に限って言うなら、「誰かのために」行うアドバイスなんてのは誰のためにもならないのだな、と思うようになった。
彼らの舵は彼らが握っている。彼らには志向する針路があって、そのために自らの責任の下に一つの船を引き受けている。

舵取りというのは基本的には中長期の予測に基づいて行うものだと思う。とはいえ、非決定的な世界の流れを前もって完全に把握することはできないので、各々が持つ情報、知識、勘、その他いろいろによってあいまいに先のことを妄想していくことになる。
そうであったとしても、全く無思考でいるよりは情報を得て論理を組んで先を見た方が比較的予測精度は上向かせることができる。そういう前提のもとに、みんな様々なスパンで未来のことを考えている。老後の生活から明日の天気まで。それに基づいて、舵を取る。老後に貧窮するよりは貯金したほうがいいとか、明日ずぶぬれになるよりは傘を持って行った方がいいとか。

 

われわれは種の限界として他人の頭の中を読めないようにできている。この限界のもとで、われわれは他者の舵取りの意味をどれだけ理解することができるだろうか。大きな決断であるほど、その人に内在する様々なものが意識的・無意識的に絡んでくる。
小さな短期的決断であれば察することは難しくない。傘を持つのは天気予報を見たからだろう。しかし、どれだけ貯蓄するかとか、どんな職種に就くかとか、どういう人間関係を持つかとか。大規模な決断になると、他人が外から推し量ることは困難だ。たとえその意図を口頭で聞いたとしても、それがどれだけ本質に近づいているかはわからない。その人が嘘をついているというわけではなくて、本人も意識せずに決断に影響している要素がありうるから。

もし自分の価値観からして良くないように見える決断をしている人がいたとしても、その決断を誤りだと断じることはできない。予測が予測でしかない以上、どんな決断にも良い方向に転がる可能性は残る。
そして、自分が相対する彼は、その可能性に賭けざるを得ない何かを抱えているかもしれない。あるいは、何か自分には想像もつかない材料を抱えていて、より妥当に先を見通して舵取りしている可能性もある。
自分が頭を回す時間と同じだけ彼らも頭を回してきたわけだし、自分が過ごしてきた時間と同じだけ彼らは独自の蓄積を持っている。その背景をまるごと引き受けるなんて、到底できはしない。ここはきっと、傲慢になってはいけないところだ。

そもそも、正しい予測に基づいて正しい決断をして、だからどうなのだという話もある。
もし他者の助言を受けて、その通りに動いて良い方向に転がったとして、どうだろうか。よかったよかった、アドバイザーに感謝しよう。そうなるだろうか。
当人が自らの決断としてその人の意見を得たなら、そういう結論にはなるかもしれない。しかし、意図せずアドバイザーから押し付けられた場合はきっとそうはならない。成功しようがするまいが、何かもやもやしたものを残していきそうな気がする。その成功が人生の節目になったとして、自らを誇ることも恐らくできない。

 

結局のところ、こうしたタイプの人々に関して言えば、決断の結果の良しあしに先立って、自ら決断することそのものに意味がある。
選んで打ち込んで返ってきたものを受け止めるまでが1サイクルになる。期待外れの結果が返ってくることよりも、サイクルのどこかが欠けることの方が苦痛になる。このサイクルは端的に、自分の人生が自分のものであることを再確認するために絶え間なく摂取されるべきものであるから。

他人の舵には触れてはいけないんだな、と思った。
もちろん舵取り以外のレベルで様々な相互作用はあるし、それが結果として舵取りに影響してしまうことはあるだろう。それは問題ない。要は当人が自分で舵を取っている感覚、自己効力感があるかどうかが問題であるような気がする。

この舵の扱いは、社会全体で暗に共有されている文脈の一部分をなしているように思える。「自分は変えられるが他人は変えられない、変えようとするべきでない」というのもそうだし、他者を尊重しようとか自分の頭で考えようというのもそう。だいたい舵で説明できる。

例外は親子関係、ないし子供が社会と取り結ぶ関係で、これは精神的社会的に舵取りができる段階にない人間をサポートするためのものだ。子供の舵取りを周囲が代行する。成熟に従って徐々に舵を子供に任せていく。
「俺はお前の親じゃない」というセリフは「その歳なら舵取りレベルの決断は自分でしろ」ということだろうし、最近よく取り沙汰される「毒親」は例外的に他人の舵をコントロールできる特権に酔って、いつまでも舵を子供に返したがらない大人を指すのだと思う。

 

こういうことを踏まえた上で、(実話ではなくてあくまで思考実験として)例えば友人が新興宗教にはまっている場合はどうすればいいんだろう。これも個人の舵取りを尊重して干渉しない方がいいんだろうか。どうも、そうは思えない。
しかし、新興宗教を妄信して結果的に幸せに生きられるケースもあるだろうし、立派な企業に就職して過労死するケースもありえる。外面だけでは何が当人の利になる決断なのかはわからないし、かといっていくら聞き取っても実情を理解しきることができないのは上で書いた通り。

せいぜい自分にできるのは、「一緒になって悩む」ことなのかな、という気がする。
なんにせよ舵取りは当人が行うべきことで、一人の独立した人格を想定するなら、決してそこに踏み入ってはいけない。
どうしても他人の決断に違和感を覚えるなら、可能な限り情報を得て、当人とは異なる個人としてよく悩んで、個人の意見として思うところをどこかで表明した上で、そういう材料としてその人の思考の隅に置いてもらうのが限界だろう。
これですら自分の思考の方が妥当だという傲慢さを含んでいる気がするけど、このラインを切り捨てると本当に何もできなくなってしまう。世の中の人はどういう割り切り方をしているんだろうか。

親や社会の庇護から切り離された個人としての大人は、ひたすら自己の判断で決断を繰り返して舵取りしていくことを強いられる孤独な船頭と化すのだろう。
表面的にうたわれる綺麗な絆のようなものはどこにもなくて、微分していけば必ずどこかに決定的な断絶がある。

ここまで書いていてようやくこの記事を思い出した。

生きるつらさに向き合うということ - Letter from Kyoto

「ただの走り書き」とは書いているけど、たぶん自分の脳裏には材料として川添さんの記事が刻まれていて、多かれ少なかれこの記事の着想とか、この記事を書くという決断には影響している。そして、こういう考え方を持つことによって今後行っていく決断にも間接的に影響していくのだと思う。
われわれの間にはそういうレベルのぼやけた相互作用しかないのだなと。ただ、そういうレベルであれば相互作用は確かにあって、それこそを大切にしていくべきなのかもしれない。