shigusa_t’s diary

当たり前の疑問を口に出せる人になりたい。

LGBTに関する考え方

自分自身はいわゆる一般的な異性愛者で、現在身の回りにもLGBTに属する人はほとんどいない。(いるのかもしれないが、少なくともカミングアウトされてはいない)
ネット上でよくこの手の話題を見かけるようになったので、現時点での自分の考えをメモしておく。

LGBTであることは誰にも止められないし認められるべき

これについてはもうだいぶ社会的に浸透した見方だろうしあえて言うまでもないけど、そのような志向性を持つことは認められるべきだと思う。
生まれ持ってそういう思考を持っているんだから、それを禁止するというのはその人格の存在を認めないことにすら近い。思想の自由を持ち出すまでもなく、人として当然の権利。

性嗜好上かみ合わない相手の存在はお互い意識し尊重するべき

こちらが好きになった人が同性愛者で、お断りされた場合は素直に諦める。
逆に自分が同性からお付き合いを求められても応じることはしない。

同性愛が尊重されるべきなら異性愛も尊重される必要があるのは当然だと思う。 そういうふうに嗜好ができてるんだからどうしようもないということがお互いに言える。
この構図を考えると、現状のLGBTと非LGBTの割合が大きく開いている以上、LGBT側の人は選択肢が少なすぎて大変だろうなあという気持ちはある。

同性愛を理解できない人の存在も尊重すべき

社会的な理解が進んだ結果、むしろ「同性愛はけしからん」と主張する人の方がマイノリティになりはじめている気がする。
が、彼らがそのように思うこと自体は誰にも禁じることはできない。

「異常だから滅びるべき」といって彼らが暴力を振るい始めた場合は、もちろん然るべき手段で抵抗する必要がある。
けれど、彼らが「異常である」という意見を持つこと自体を批判してしまうのは、結局マイノリティな思考回路に対する弾圧にすぎない。 それは叩く相手こそ異なるけれど、結果的にはマイノリティとしてのLGBT自身の首を締めているのだということは心に留めておいたほうがいいと思う。

自身と異なる思想を持っている人に対してできることは、相手が法を侵していないかぎりにおいて、言葉を尽くして説明し、理解してもらえるように努めることだけである。
それでどこまでも分かりあえなかったのなら、その相手については諦めるほかない。

トイレ、銭湯などの性別分けは外見に従ってほしいと思う

これはほんとに複雑な問題でいかんともしがたいけど、どちらかをとる必要があるなら外見に合わせるべきだと現状では考えている。
内的な意思がどうあるかという問題より、公衆に与える印象がどうかという問題なので。全部共用混浴にするわけにもいかないし。

しかし外見上中性的で区別できない例もあるわけで、その時はどうすればいいんだろう。比較的近いと信じる方を選んでもらうしかないんだろうか。
いずれにせよ、お互いが喧嘩にならないように柔軟に歩み寄る方向を目指してほしい。

同性婚は認められるべきだが、一定の留保がある

同姓が支えあって暮らしていく構図には何の問題も感じない。大切な人がその道を選んだら異性婚と同程度に祝福できる自信がある。

けど、結婚という制度にそれを組み込むかどうかはちょっと別の問題で。
今まで異性婚を前提として様々なシステムが構築されているから、同姓のカップルも結婚として定義すると色々追いつかないところがあるように思う。
誰かが言っていた「結婚と実質的に同機能で、ラベルが異なる制度を併置したらどうか」という意見が今の自分の考え方に近い。

とはいえ、社会的に同性愛が認められたという事実を示す称号としての「結婚」というラベルの獲得にこそ意味があるという考え方もわかる。
社会機能の円滑な運営と折り合いがつくなら、徐々に認められていけばいいなと思っている。

同性カップルが子供を持つことに関しては冷静に考えて欲しい

LGBTとは直接関係なく、生まれてくる子供のために。
同性愛がいい悪いという問題とは全く別軸で、生まれてくる命を強制的に道連れでマイノリティの世界に放り込むことの意味を考えてほしい。

そもそも、養子であることや母子家庭父子家庭であることすら、子供にとっては自我を構成する上での巨大な重荷になる。
同性の両親というのはその中でも相当に熾烈なものだ。少なくとも片方が血縁者でないこと、父親の機能・母親の機能の所在が曖昧になること、身の回りの一般的な家庭と比較不能な環境になること、その他発達過程に影響を及ぼしそうな要素は枚挙にいとまがない。

子供が育っていく過程において直接的な攻撃を受けるリスクも高い。 両親が同性であるという状態が古い世代に理解されないことは当然あるだろうし、日本の一般的な児童の生育環境を考えると、残念ながら無条件の偏見や暴力に晒される根拠として十分だといえる。

理想的な社会のあり方はともかく、現実としてそうであるということ。
愛しあう二人が戦っていく覚悟があるとしても、そこに二人の子供を放り込んで守り抜ける能力があるのかどうか、幸せにできるのかということ。
そこを十二分に考えた上での選択でないと、少なくとも自分にとっては認めがたい。 世界のどこかの同性カップルが子供を持つことについて何か言うつもりはないけど、身内に安易に子供を持とうとする同性カップルがいたら比較的強く制止するだろうと思う。

 

現状の意見としてはこんな感じ。目についた問題をだいたいさらったつもりだけど、抜けがあったら追記するかもしれない。

ブログに書く文章を少し綺麗に整えたいなと思い始めた。

自分が何故だらだらと長くテキストを書くかというと、読み手の背景知識による影響をなるべく少なくしたいから。
まともに書くと専門用語がずらずら並びそうな面倒くさいトピックを論じるとき、それぞれの語に関する読み手の事前知識を前提にすれば確かに短く簡潔に書けるけど、大多数の人にとっては意味不明な文章になってしまう。

もっと一般的に考えても、言葉を使って意味を制約するほどその言葉が意味する範囲は狭まっていく。 誤解の余地のないように、誰が読んでも比較的同じように「わかる」ようにするためには、なるべく言葉を尽くして「あれでなく、それでもないこれである」と表明することが望ましいことがわかる。

例えば以前のエントリで書いた社会的な多様性を実現する意義がうんぬんかんぬんといった文章の大部分は、 たとえば「最適化問題におけるGAの突然変異のアナロジーとしてのダイバーシティ」と、たったこれだけの言葉に書き換えることもできる。

二つのテキストが指し示すものは同一でも、表現の質としては異なる。 後者のような書き方をすることは、潜在的な読み手の一部を置き去りにする一方で、簡潔さと知的な(あるいは衒学的な)印象を得るトレードオフになっている。

たまに学者やエリート層などに後者に全振りする文章を書く人がいる。
それは限られた層との意思疎通や、限られた層以外への威圧やごまかし、自身に対する権威付けとして有効に機能する一方で、多くの人に正しくものごとを伝えるという機能を放棄しているように思える。ちなみに私は円城塔が大嫌いである。

外に向けて書く以上、私はテキストの「伝える」側面を重視したい。
だから、例示を使ってある程度一般的な前提知識で概略を把握できる程度に翻訳したり、必要に応じて読み手が知識補完できるような糸口を残しておく必要がある。この方針は変えない。

とすると、やるべきことは、

  • 論旨として重要な部分には今まで通り言葉を尽くす
  • 伝えたいことがきちんと伝わる範囲で言葉を簡潔に切り崩し、いらない部分は積極的に削る
  • 論旨と離れた装飾的部分については、望む効果に合わせて適切な加工を加える

という三点になるのかな、と思う。

きちんと詰めた思考を垂れ流す記事はどうしても長くならざるを得ないので、これを意識したところであまり変わらないような気もする。
ただ、それとはまた別個に、簡潔さの側面、装飾的要素の側面に重きを置いたテキストを書いてみてもいいかもしれない。

元々文章読本の類を読むのは結構好きな方だし、どのみち書き続けるんだから毎度少しでも気持ちのよいテキストに仕上がったほうが嬉しい。
これからも書きたいことを書きたい時に書きたいように書く方針でこのブログは続けていくだろうけど、せっかくなので無理のない範囲でこだわってみようと思う。

ひとつ前の記事が難産だった。ふと思いついたことをがーっと書き出すのは楽なんだけど、トピックが先にあって、そこから論を構成するのはまるで違った難しさがある。
元々自分の脳内のストックにはなかった論なので、調べ物もずいぶんしないといけないし。それだけ勉強にはなるんだけど。
職業ライターの人は大変なんだろうなと思う。

書いていて、自分が興味を持っているのはまさに「表現」なんだなあ、と強く感じた。
こんな服を買いましたとか、PVがいくらになりましたとか、偉い人は○○と言っていましたとか、そういう事実の伝達に終始する記事にはほとんど興味を持てない。

書き手の心の中で何が起きたのか、その体験こそが知りたい。思考が介在した形跡を追いたい。
そういうことを書いているブログって案外少なくて、たまに遭遇するとおっと思ってつい読みふけってしまう。

何を食べた何を買ったどこに行ったとか、立派であるらしい誰かを信奉している自分の表明とか、○○なライフスタイルを持つ自分の表明とか。
この種の属性の話題ばかりで構成されているブログの方が多数派なのを見ると、やっぱり通常のコミュニケーションは外部の何かを主体にして行うものなんだろうな、と思う。

そういう「属性のやりとり」的なコミュニケーションが、自分にはよくわからない。形だけなぞることはできても、内心では常に疑問符が浮いている。
実際、まとわりついた属性を捨て去って思考だけ書き散らかすこのアカウントではとても気分よく過ごせている。

表現の自由と暴力の狭間

表現の自由に関する試書 - tsukaki1990@blog

この記事から色々と考えたこと。元記事とは重なっている部分もそうでない部分もある。

現実に理想的な表現の自由が体現されていることはほとんどないし、それは自由と暴力が紙一重だからだよなあという話。

表現とは何か

以下の論では表現を、「個人の思考によって生まれた何かを他者に伝達する営み」として定義したい。

たとえば、「本日X時にYでZがありました」と表明することは表現ではないと思われる。 これは事実の伝達にすぎない。起きた事実をそのまま伝えようとすれば、誰が書いてもこのようなテキストになる。

しかし、「本日こういうことがあって、素晴らしいと思った/けしからんと思った」というところまで推し進めると、これは表現であるといえる。 なぜならば、ある事実を受け取り、そこから立ち現われてきたその人の心の動きをまさに「表現」しているから。
異なる人が全く同じ感想文を書き出してしまうことはあるだろうが、その文の背景にある思考は全く同じではあり得ない。個人の文脈によって、それぞれ異なる何かと関連付けられて浮かび上がってきている。

表現と表現でないものの区別はひとえに、ある人間の内心で起きたなにごとかの発露になっているかどうかに尽きる、と私は考える。

回りくどい言い方を避ければ、個人の頭の中で考えたことを表明してさえいればそれは表現だといって差し支えないだろう。 大部分が事実の表明であったとしても、そこに個人の意見を付与していれば表現たりうるし、逆にトピックが人間に関する思索であっても、ただ他人の主張を受け売りしただけでは表現たり得ない。

元記事の主張で特に注目するべきところは、表現は受信をもって成立するという部分。

注意点として、発信者の動機は考慮せず、受信者の側で何らかの情報・感情が受信されたことをもって評価する。

表現の自由に関する試書 - tsukaki1990@blog

これは全くその通りだと思う。受信されなければ伝達は成立しない。

自分の頭の中で完結してしまえば表現にはならない。また、自分しか読まない手記にしたためても表現にはならない。
しかし、その手記を誰かが拾って、目を通したその瞬間に表現は成立する。質的にも、書き手の意図とは関係なく、受け取られ方によって表現の内訳が決まる。

表現の自由」の現状

では、表現の自由とは何を指しているのか。 上記の定義から、「誰もが、自らの思考から生まれた何かを、他者に伝達するという営みを妨げられないこと」になるだろう。

問題としたいのは、現実においてこの表現の自由が理想的な形で実現されているのかどうか、ということ。

そうなっていないのは実感からも明らかだと思われる。われわれは常に、本心を表明できない環境の中で、社会との駆け引きを要求されている。

では何が原因でそうなっていて、より理想的にしていくためにはどうすればいいのか。

表現の自由を脅かす現実的諸問題

表現の自由を脅かす主要因は大きく分けて3つあるのではないかと思う。

伝達手段の欠如

自身の思考を広く表明したいと思っても、そのための手段がないこと。

今はネットがあるのでこの問題が致命的になることは少ないが、金銭的困窮などで伝達手段を失うことはありうる。 また、同じネットというツールを共有していても、リテラシーやネットワークの構築能力によって伝達能力の差は生まれる。

人間関係や社会的属性による制約

例えば雇用関係上の上位者に対して自由に考えを表明することは困難。 彼らの心象を害すると、属性的な優位性や報復能力によって抑圧される可能性があるため。

親、年長者、権力者なども持論を述べにくい相手になりうる。

法による制約

名誉毀損など、表現の自由と競合する法理が存在すること。

表現の自由とその制約

前述した3点のうち、特に法による制約が存在していることは、表現の自由という大原則が無制限には成立しないことを既に示しているように思える。
少なくとも、表現の自由や思想信条の自由を振りかざして言葉の暴力で他者を切り刻むことは、公益に反すると解釈されているということになる。

これは、言い換えれば、表現の自由が実際には暗黙に「誰かを傷つけない範囲での自由」として運用されているということである。

この「誰かを傷つけない範囲」の解釈が困難なために、様々な問題を生んでいる。

  • 表現の名のもとに個人のプライバシーを暴き立てる文学作品は、被害者に恥辱を与える。許されるべきだろうか。
  • 表現の名のもとに未成年の仮想的な少女を暴行する漫画作品は、読むものに嫌悪感を与える。許されるべきだろうか。
  • 表現の名のもとに銃やナイフを振り回して戦争する映画作品は、観るものに恐怖を与える。許されるべきだろうか。

どこまで許されるのか。自由と暴力の線引きはどこなのか。 これこそが、今「表現の自由」が抱えている問題の本質なのではないかと思う。

表現の自由」のために

この線引きの問題は個人の解釈に依存するため、誰もが納得の行く形で決着することは困難だろう。

しかし、線を引く以外にも、表現の自由のためにできることはある。要は、誰かが傷つかない範囲で表現できるように工夫していけばいいのである。

例えば、ゾーニングという手法がある。 暴力や性的描写が観るものを傷つけうるなら、社会的に年齢制限を施すことによって、作品が傷つけうる人々の目に触れないようにすればいい、という発想だ。
これは誰かを傷つけるリスクを抑えられるし、元々ターゲットにならない層を弾いているだけなので、表現者にも不利益はない。合理的な仕組みである。

その作品を世に出すことで、誰が傷つくのか。それを緩和するために、どのような仕組みを作っていくべきか。今求められているのはこの種の思考だろう。
表現者側にこれを考えることを強いるのは重荷ではあるが、表現者自身のために業界全体として考えていかなくてはいけない問題である。

なにより重要なのは、表現の自由という概念をきちんと社会で共有することだと思われる。 「○○な表現はけしからんから廃止するべきだ」という考え方がマジョリティとして残っている限り、表現者は常に抑圧され続ける。

特に、片務的な自由に陥らないようにする必要がある。 女の子を陵辱する表現が世に出ることを規制するなと叫ぶなら、男の子同士が絡み合う表現が世に出ることも受け入れなくてはいけない。 当然、その逆も然りで、BLの権利を主張するなら陵辱ものの権利も受け入れる必要がある。

自身が好む好まざる、理解できるできないにかかわらず、ある表現が生まれ、育ち、広がっていく一連のプロセスを受け入れなくてはいけない。 これは存外に難しいことでもある。大勢が理解しようとする方向に舵を切ったとしても、定着するまでには時間がかかるような気がする。

ある学者がその論敵に送った台詞に、「お前の主張には一切賛同できないが、お前がその主張をする権利だけは死んでも守る」というものがあった。 表現の自由が真に適用されるのは、きっと社会を構成する大多数がこの台詞に心底同意できる程度に成熟した時なんだろうな、と思う。

なぜ数学が必要か―数年前の自分に宛てて―

数年前の自分は少なくとも周囲の人々と比べて数学というものが苦手で、でもそれを使わないと事が前に進まずに悶々としていたんだけど、最近はいくらか慣れてきて心持ちも変わった。 (それでもまだ得意とはいえないが、必要最低限についていける程度にはなった)

どうしてあの人たちはあれほどまでに数学的にしか議論を受け入れてくれないのか、とか、それってほんとに生産性に繋がってるのか、とか。 そういう疑問が当時はあった。最近は、こうした問題にもある程度納得がいくようになってきた。

「数学語」の存在

われわれは日本語を日常的に用いて、相互にコミュニケーションをとっている。なにをもって日本語の実体とするかはともかく、ある程度相互に「日本語とはこういうものである」という認識を共有していて、その範囲内で言葉を紡ぎ、意思を確かめあう。

ところが、大学や、ある種の理系的な議論が要求される環境では、「数学語」で動いている人種が少なからず実在する。

主張に対して「根拠は何?」というのが彼らの口癖だし、こうだからです、と日本語で説明すると、なにやら思案したあと紙にエンピツでゴリゴリと数式を書き始め、「やっぱり違うかなあ」などと言い始める。 その書き殴られた数式の羅列を見てもなんのことやらさっぱり分からない。わかりませんと言うとこれはつまりこういうことで、とまた数式で証明を始める。日本人なら日本語を喋ってくれと言いたくなる。

どんなに日本語で言葉を尽くして説得しても、彼らは受け入れてくれない。頭のなかにどんなに冴えたアイデアを持っていても、伝えきる前に切り捨てられることもありうる。

しかも、こういう人は学問という領域においてかなりの多数派である。理系に分類される各種の学問は当然として、純文系的なごく一部の学問を除き、例えば経済学に代表される社会科学でも、医学看護学でも、下手をすると心理学や考古学の類でも、突き詰めていくとこの種の人に出会ってしまう。

端的に言うと、これこそが数学を学ばなければいけない理由である。彼らと話をするために数学が必要になる。

逆に言えば、自身の人生設計上、一定以上の学問の深みに踏み入らないつもりであれば、数学はいらない。高校数学の文系部分までの範囲でおおよそ事足りるように思う。

しかし、何かの拍子に踏み入らざるを得ないことも出てくる。仕事に突然統計が絡んできたり、専門性をもつクライアントから仕事を受ける羽目になったり。こうなると、誰かリテラシーのある相棒を見つけてくるか、忙しい合間をぬって必死で学ばないといけない。その場で対応できる人間の方がチャンスを掴みやすいことは言うまでもない。

おそらくそのあたりを知っている人が、「数学はやっておけ」とアドバイスするのだと思う。とはいえ、学習コストや頭の向き不向きを考慮したトレードオフの問題であって、数学を学ばない選択肢も尊重されるべきだ、というのは強調しておきたい。

彼らはなぜ数学語で喋るか

ではなぜ彼らがそんなに四角四面に数学を使いたがるかということだけど、ちゃんとした理由がある。(後述するように、それを意識している人としていない人の差はある)

軸となるのは、数学というものの一意性である。

数学は、世界を論理で完全に定義する。定義されていないものは純粋な数学の世界には存在しないし、その定義はひもといていけば誰にでも理解できる形で記されている。

人間の思考は多種多様で、全く同じ思考をする人は存在しない。

「べき乗とは、ある数字を、肩に乗った回数ぶんだけ掛けあわせたものである。例えば、2の2乗は2×2である。2の1乗は2である。2の0乗は1である。2の-1乗は1/2である。2の-2乗は1/(2×2)である...」

これだけの情報が与えられたとき、たとえば帰納的に3の2乗は3×3で9であるとは言えるだろう。では、0の0乗は?

なんとなく、直感的に導ける解はいくつもあるだろう。0を何回かけても0なのだから0だ、どんな数字も0乗すれば1なのだから1だ…… どれも直感的には間違っていないし、ある種の法則性を保っている点では正しい。じゃあどちらが正しいの、となると、直感的にはどちらも正しいような気がする、となる。曖昧なまま、グレーなままその議論は終了してしまう。

0の0乗の正解がネット検索しても見つからないので作成した。 | 子育ての達人 | 妊娠・出産・育児・子育ての毎日を楽しく

数学は、こうした問題にも必ず単一の結論を定める。0の0乗は、「代数学的には未定義である」というのが正しい。 なぜかというと、上記サイトで示されているようにゼロ除算を行っているから。ゼロ除算がなぜ未定義かというと、実数体の定義に含まれていないから。

この結論について、数学をきちんとやっている人間なら一切の異論は差し挟めない。いくつかの公理から出発したある世界を共有している限り、みな同じ結論にたどり着く。 これと異なる結論を導きたければ、前提となる世界をつくりかえなければいけない。

逆に言えば、その結論がおかしいと感じるのであれば、無数に都合のいい世界を構築することもできる。 この世界では0の0乗は1であるとした方が便利なのでそのようにする、と表明して、その世界で議論することもできる。 数学の授業で平行線は無限に延長しても交わらないと習ったが、こんなものはおかしい。きっとどこかで交わるはずだ。そう思うのであれば、それを公理とした新しい数学の世界を作る自由もある。 そうした公理を共有さえすれば、新しく作った世界における結論もまた共有できる。

国際的にある論を表明しようとすると、その論に触れる人々のバックグラウンドというのは無数にふくれあがる。 しかし、数学を用いれば、背景知識を単一の体系に絞ることができる。これが強い。むしろこれなくしては、万人に受け入れられる理論を構築することなど不可能であるともいえる。

学問というのは、「巨人の肩に乗る」と言われるように、先人たちが積み上げてきた正しさの山の上に、新たに正しさを積み上げていく営みの上に成っている。 その営みを正しく行っていくために、数学というのは非常に都合の良い性質を持っている。

だから彼らは数学を使う。これは合理的な選択だし、もし数学を使いたくないのであれば、何か他の形で正しさの連鎖を担保できなければいけない。

数学語を意識していない人々の存在

こうした数学語がもたらすメリットを、理解している人もいればいない人もいる。

誤解を恐れず荒っぽく言うと、ある種の「数学バカ」の生産性は高くない。個人の主観だというエクスキューズは入れておく。

彼らは数学的手法にあまりに偏って議論を重ねてきてしまったがために、仮説の創造や思考のスキップができない。証明で組み上げた土台の外に踏み出していくことに、失敗に対する恐れに似た抵抗を感じる。

だから、頑なに言及を避けたり、あるいは手っ取り早い仮説としての誰かの言説に飛びつき、そこから演繹してしまったりする。当然、前提が間違っていれば演繹の結果も誤ってしまうことになるのだが。

現実には、数学がそのまま適用できる範囲は多くない。むしろ、無数にある仮説の取捨選択こそが大事で、それは数学的にはどうしようもない。

確かなものなどないけれど、あるかぎりの材料を集めて、比較的確かそうなものを思考の足がかりにしていくような、霧の中でもがくような努力が必要になってくる。 「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」を無数かつ並列に展開していかなければいけない。これは現実の問題に向き合う人々の宿命であるといえる。

しかし、彼らにとって往々にして仮説というのは所与のものになってしまっている。教科書から仮説が与えられて、それは正しいものであると受け入れて、思考というのはその前提から導くものだと考えてしまっている。その結果、トンデモな学説や、新興宗教の類にはまり込んでしまったりもする。

ある仮説から思考を展開していくと、現時点の諸問題が簡潔に美しく説明できてしまうように見える。だから、仮説は正しいのだ。そういった論理で仮説に対する確信を深めてしまう。その仮説から他にも演繹を広げていきたくなってしまう。 元となる問題を説明できる仮説が他にいくつあるかも、そもそも数学からはみ出した場における演繹がどの程度信頼できるかも不明であるのにもかかわらず、だ。

あくまで数学語は数学語であり、土俵を共有するために必要になる道具にすぎない。そこを拡大解釈することは、往々にして危険な盲信に繋がる。

数学語が鼻についていた頃の自分は、この種の人々を(主にネットで)見てきた結果、数学的なるものになんとなく嫌な匂いを嗅ぎ取ってしまっていたのだろう。

数学というチャンネルを持つこと

しかし、そういう偏った思考のもとで議論する人々は決して多くない。

誰かが議論において数学を持ち出すとき、大抵はその人が非数学的な議論に慣れていないか、あるいはそもそもの議論に数学的な正しさが要求されているか、どちらかであるように思う。

前者であれば、前述したような仮説自体を生むことの意義を伝える努力をすればよいし、後者であれば逆に彼らがいう数学を用いることの合理性に耳を澄まさなければいけない。

数学という隔離された綺麗な世界の中だと、彼らとも意義深い意見交換ができるし、またそこから学ぶこともできる。 それは決して文系的な議論を捨てることではなく、頭のなかに異なるチャンネルを新たに作るということである。

プログラマはよく、「コードを読むと書き手の人柄が分かる」などと言う。 外国人が書いたソースコード中の外国語のコメントは読めなくても、コード中の処理の書き方の癖から、その人が今までどういうプログラミング言語を学んできて、どういうデザインパターンにかぶれているかがわかる。 これもまた、自然言語に依存しない意思疎通のチャンネルの例であるといえる。

数学にももちろんこれがあって、数学が絡む学術論文を呼んでいると、記号の使い方や用いる論法で出身分野が予想できたりする。 自分にはまだそれほど経験がないのであまり精度が良くないが、先輩や教授たちはかなり敏感にそうした言外のものを嗅ぎとって論文を読み進めていた。

そのようにして数学を捉えると、過去の自分も数学の意義については納得してもらえるのではないかと思う。

必要性を理解していてもなかなか頭に入ってこないのは困りものだが、それはまあ数学がないと泳げない環境に放り込まれてしばらく溺れていれば覚える、としか言えない。

面白いとか惹かれるなと思ったブログをひたすらRSS登録していくと、定期的に発達障害の話題が舞い込んできていろいろ考えてしまう。

診断を受けたわけじゃないけど、自分も多かれ少なかれ引っかかるだろうなとは常々思っている。恐らく自閉傾向がある。

今は社会生活が困難とまではいかない、やや変わり者程度の扱いで踏みとどまれている気がする。 これが生まれつき偏りの程度が軽かったせいなのか、自覚がなかった頃に必死で自分を殺して周りに適応しようとした努力の結果なのかはわからない。

思い返せば、小中高あたりまでの記憶は暗澹たるものである。 頭の中は常に「このままじゃだめだ、自分を変えなきゃ」ばかりで、行動を起こしては失敗して傷ついての繰り返し。 そういう経験で過去が塗りつぶされてるもんだから、何をやっても自信を持てないし、何かの拍子に昔のことがフラッシュバックするとそれだけで悶絶したり。

大学まで来てなんとなく食っていけそうな一芸に出会って、それにのめりこんだおかげで浮かんでこれたけど。 いろいろifがあって、そこで悪い方に振れていたらどうなっていたやら想像するだに恐ろしいものがある。

当時の自分の思考は、自分は人並みのことができないゴミなので人一倍努力する必要があり、 また将来この性質のせいで確実に苦労するので、可能な限り選択肢を広げる方向に動かなければならない、というものだった。

これは今思えば典型的な全か無かの考え方であって大いに偏っている。けど、当時の自分が持つカードからしてみれば、比較的妥当な手でもあった。

この極端な自己否定は後々また別の問題を生むんだけど、直近では努力可能な総量の増加に関して非常によく機能した。 当時の勢いで努力しろと言われても恐らく今の自分にはできない。そして、当時の自分が広げてくれた選択肢のおかげで今の自分の首はつながってる。

今振り返って思うのは、その時点の情報と能力を使って妥当に悩み、妥当に行動することさえしていれば、 視界や思考が多少偏っていても、比較的まともな方向にものごとを転がしていけるのではないか、ということ。 ある程度社会が見えるようになってきた自分から過去の自分に対してもこう言えるし、あるいは典型的なタイプの人間と発達障害の人間を比べた時にも同じことが言えるのかもしれない。

ネット上でカミングアウトしている人だけ取り出してみても、発達障害の傾向を持つ人は「悩み上手」に見える。 ここでいう「上手」は深く妥当なロジックで悩む能力のことを指していて、立ち直りや切り替えの速さに着目するならむしろ下手ともいえる。

途中で投げ出すことなく内省的に考えきることは、きちんと考えきってさえいればそうそう悪い方向にはいかない。無思考に選んだ手はランダムなりにしか機能しないけれど、悩んで取捨選択すればそのぶんだけ流れ着く先の平均は持ち上げられる。

うじうじ悩んでないでさっさと切り替えろというのは、悩み過ぎると気が滅入ってくるからほどほどにしておけというぐらいの一般論にすぎない。もし悩み抜ける性質を持っているなら、悩んでおくのは悪いことではない。「なんとなく」で放り出したり「考えさせられる」で結ぶよりはるかにマシである。

真剣に悩み抜く人については、それが何に起因するどんな悩みであれ尊重したいと思う。自分についても、思考停止せず積極的に悩む姿勢は捨てずにいたい。

思考と多様性

ただ、思考だけが在る場所へ - deschooling web http://deschooling.hatenablog.com/entry/2015/11/16/012632

人間の思考は多面的で、ときとして一貫性を持ちません。しかし、現実での人間の発言には一貫性を求められます。さらにはその人の一面にしかすぎない価値観や属性(男女、右翼左翼、職業などなど)に矮小化されることもあります。統一的な自己でなければならないという現実の要求が、実は考えるということを脅かしている、と私は考えています。

社会的な属性がその人の思考の発露を制約しうるというのは常々感じていて、だからこそこういう場で語ることを選ぶに至ったわけだけど、さらに推し進めて、そもそもの一貫性すらも思考の制約になりうるのでは、という趣旨のコメントを頂いた。考えたことのない視点だったけれど、個人的にはすごく納得できる。

これに関して自分なりに考えてみた。書き終えてみると元記事の論旨と似たような主張になってしまったけど、恐らく通った思考の道すじは異なっていると思うので、書き出しておきたい。

思考の一貫性は必要であるか

たとえば、ある問題に関して昨日の自分が考えた末に賛成であると表明し、今日の自分がまたゼロから考え直した結果反対であるという結論に至ることは、一般的には非難に値することであるように思う。少なくとも政治家がこういう手のひら返しをすれば非難囂々だろう。

だけれど、現実にはこれはままあることだと思う。少なくとも私は、振り返ってみればこういう経験は結構ある。さすがに昨日今日ではそっくり意見が入れ替わったりはしないが、一年前と今日、どちらも同じ事について考えていて、全く別の結論に至っており、しかもどちらも筋が通っているように見えるということは少なくない。

理系的な、演繹的ないし論理的な学問を行う場合は、こうした矛盾は起こらない。ある仮定があって、その仮定から、定められた手続きのみを行って洗練していくのが演繹的学問である。だからこそ複数の異なる意思を持つ人間が、仮定と手続きさえ納得ずくなら、同じ問題に関して同じ結論にたどり着くことができる。この種のプロセスにおいて、結論の変動は許されない。結論が変動するのであれば、演繹の過程にミスがあったということだ。

ただ、文系的な、帰納的ないし直感的な学問においては、結論の変動は決しておかしなことではない。まず現実の材料から、帰納や想像を広げて、有益な仮説を導き出すのが文系的学問の仕事であり、手にしている材料が変われば結論も変わりうる。その後にそのアイデアの是非正誤を検証するのは演繹ないし論理の役割である。検証プロセスを越えて生き残りさえすれば、綿密な議論から導かれたアイデアであろうが、単なる勘で降ってきたアイデアであろうが、その価値は変わることがない。

つまるところ、仮説の創造という目的においては、一貫性はそれほど重要でないのではないだろうか。「同一であれ」「一貫せよ」「誰にとっても同様に辿れるロジックであれ」というのはあくまで自然科学的な議論における再現性の要請にすぎない。あたかも一般的に、どんな問題に対してでも適用されるべき原則であるように叫ばれてこそいるが、演繹の前段階であるところの仮説の創造において必須であるとは言い切れない。

思考の一貫性が必須である、有益であるというのは、実のところ限られた領域でのみ通用する論理なのではないかと思う。

ダイバーシティイノベーション

近年はダイバーシティ多様性)が重要である、といわれるが、ここには上記のような、仮説の創造というフィールド特有の事情があるのではないだろうか。

社会はイノベーションを求めている。イノベーションというのは、噛み砕いて言えば、今まさに必要とされていて、手の届くところにあるのにも関わらず、思いつかれていないがためにつかみ取ることができていないアイデアであるとも表現できるだろう。

イノベーションとなるアイデアが容易に得られないのは、ひとえに演繹でたどり着ける範囲の外にあるためである。もし演繹でたどり着ける範囲にあるのであれば、誰にでもたどり着きうるし、誰かがいずれたどり着く。そうではなく、全く非論理的に、あるいは広く知られていない、広く重要とは思われていない情報や手続きからそれを組み上げることによって、これまで未発見であり、しかし演繹にとって必要な土台となるところの仮説にたどり着く。これがイノベーションのプロセスである。一度イノベーションが起きると、それを土台とした演繹が広く網の目のように広がっていく。

演繹的プロセスが行うことは、数学的なアナロジーを用いれば、うねうねと波打った多峰性の関数があったとき、ある開始地点を定めて、そこから上方に登っていき最大値へと進んでいく、いわゆる最適化である。が、この山登り的な方法は、往々にして局所最適解に落ちる。関数の全体にはより高い山(大域的最適解)がある場合でも、山登り法は今登っている山の頂点にしかたどり着くことしかできない。

こうした局所最適解の問題に対応する手法の一つに、遺伝的アルゴリズムというものがある。これは、さまざまな解に対応するデータとして構成した遺伝子をばらまき、それぞれの遺伝子を交雑させ、生まれてきた世代のうち、成績の良いものを残して他を淘汰するプロセスを擬似的に繰り返していくというものである。

このアルゴリズムの肝として、突然変異のシミュレーションがある。単に直近の評価が良い特徴だけを残していっても、結局局所最適解の周辺に個体が集中していき、そこに収束してしまう。そのため、ある程度予測不能な変化をする突然変異の個体を一定数作る。そうすることで、天井に達してしまった次善の解から最善の解に移っていくことができる。

ここでいう突然変異は、人間の社会における突出した個性であるとも言えるし、あるいは誰にも知られることなく、誰かのノートに書き記されたまま忘れ去られていくアイデアでもありうる。

もはや人間の演繹の技術は十分に進歩してきていて、山を登る手法は確立している。だからこそ今ダイバーシティが叫ばれるのではないかと思う。新たな仮定そのものを生み出すプロセスにおいては、アイデアの飛躍、平均からの逸脱こそが意味を持つ。戦略的に突然変異を生み、それを検証するプロセスを繰り返していかなければ、今の山は登れても別の山を見つけられない。

枷としての一貫性

何が言いたいかと言えば、局所最適解から抜け出すことを目的に据えると、突然変異や飛躍、逸脱した動きこそが意味を持ち、それは積極的に保護していくべきであるということ。 大多数の個体がスタックしている局所最適解は行けばたどり着けるだけに魅力的であるけれど、可能性というのはその外側にこそある。

外側を選ぼうとすると大多数の解は現時点より明らかに悪い、検証に堪えないものになりかねないけれど、そのリスクを取らなくては前に進めない。その中で浮かび上がってくるような、生存可能な突然変異を作れる人が、真にイノベーティブな人間であるといえる。

例えば、よく「中二病」が揶揄されるけど、あれほど貴重なものはないように思う。まともな年齢になってから創作を始めると、それまで感銘を受けた多数の作品に引っ張られた思考からスタートするし、力のある作品は世の中で広く共有されているから、影響される方向性も多数の中では凡庸なものになりかねない。そういう束縛から自由な、まっさらな感性そのものから生まれてきた彼や彼女の思う「かっこよさ」「かわいさ」「美しさ」の表現には無限の可能性が詰まっているし、尊重されるべきものなのではないか。きっとああしたまぶしい感性の発露の中に、未だ見いだされていない文学の種があるのだろう。

そして、こうした観点から言えば、確かにその人自身の時間軸の中でさえ、その人の思考は自由であってよいのではないかと私は思う。

人間が成長するというのは経た知識や経験によって当人の判断基準の重みが変わることであると私は考えているが、その変わっていく自分を、意見の一貫性、社会的キャラクターの維持のような観点で押しとどめてしまうのは、イノベーションの視点からはむしろ損失ですらありうる。

もちろんこれは一般には通用しない話で、社会において、会う度に人が変わっているような人間と付き合うことは困難だろうし、仕事というのは安定した成果が望めるからこそ受け渡されるものであって、社会生活を送っていると同一性を保つことが合理的な場面の方がはるかに多い。

しかし、こと思索の場面においては、同一性の保持は創造性のための枷にもなりうる。一貫するべきという方針そのものがすでにもう思考の幅を狭めている可能性がある。もし明日の自分が今日の自分と一貫していないのなら、それは社会的にはともかく、多様性の確保の観点では資産であるといえそうだ。

匿名論壇の意義

これまで見てきた古きよきはてな村なるものとか、2chとか、今はもうなくなってしまった論客コミュニティなんていう掲示板もそうだったけれど、ああいった場では匿名でありながらもすごく熱量のある議論が繰り広げられていたように思う。

そうしたコミュニティで活発な議論が生じ得た背景には、個々のユーザが自らの属性から自由であり、ことによっては一貫性からも自由であり得たことが少なからず影響していたはずである。

今は上にあげたどのコミュニティもほぼ役割を終えてしまっているようで、それ自体は残念でならないが、たとえばこのはてなブログというコミュニティの中でも、あちこちで小さくそうしたものが息づいているように感じる。 今ざっとはてなブログを見渡しただけでも、アクティブに思考を発信しているブログがいくつもあって、どれも一括りにできないような多様性に満ちていて大変面白い。

今回なにげなく書き残した自分の思索に対して言及をいただけてすごく嬉しかったし、またそれをきっかけに自分一人では辿りつけなかったかもしれない思索に至ることもできて、刺激になった。 願わくば、今後も色々な人と思考を交わしてみたいなあと思う。