shigusa_t’s diary

当たり前の疑問を口に出せる人になりたい。

面白いとか惹かれるなと思ったブログをひたすらRSS登録していくと、定期的に発達障害の話題が舞い込んできていろいろ考えてしまう。

診断を受けたわけじゃないけど、自分も多かれ少なかれ引っかかるだろうなとは常々思っている。恐らく自閉傾向がある。

今は社会生活が困難とまではいかない、やや変わり者程度の扱いで踏みとどまれている気がする。 これが生まれつき偏りの程度が軽かったせいなのか、自覚がなかった頃に必死で自分を殺して周りに適応しようとした努力の結果なのかはわからない。

思い返せば、小中高あたりまでの記憶は暗澹たるものである。 頭の中は常に「このままじゃだめだ、自分を変えなきゃ」ばかりで、行動を起こしては失敗して傷ついての繰り返し。 そういう経験で過去が塗りつぶされてるもんだから、何をやっても自信を持てないし、何かの拍子に昔のことがフラッシュバックするとそれだけで悶絶したり。

大学まで来てなんとなく食っていけそうな一芸に出会って、それにのめりこんだおかげで浮かんでこれたけど。 いろいろifがあって、そこで悪い方に振れていたらどうなっていたやら想像するだに恐ろしいものがある。

当時の自分の思考は、自分は人並みのことができないゴミなので人一倍努力する必要があり、 また将来この性質のせいで確実に苦労するので、可能な限り選択肢を広げる方向に動かなければならない、というものだった。

これは今思えば典型的な全か無かの考え方であって大いに偏っている。けど、当時の自分が持つカードからしてみれば、比較的妥当な手でもあった。

この極端な自己否定は後々また別の問題を生むんだけど、直近では努力可能な総量の増加に関して非常によく機能した。 当時の勢いで努力しろと言われても恐らく今の自分にはできない。そして、当時の自分が広げてくれた選択肢のおかげで今の自分の首はつながってる。

今振り返って思うのは、その時点の情報と能力を使って妥当に悩み、妥当に行動することさえしていれば、 視界や思考が多少偏っていても、比較的まともな方向にものごとを転がしていけるのではないか、ということ。 ある程度社会が見えるようになってきた自分から過去の自分に対してもこう言えるし、あるいは典型的なタイプの人間と発達障害の人間を比べた時にも同じことが言えるのかもしれない。

ネット上でカミングアウトしている人だけ取り出してみても、発達障害の傾向を持つ人は「悩み上手」に見える。 ここでいう「上手」は深く妥当なロジックで悩む能力のことを指していて、立ち直りや切り替えの速さに着目するならむしろ下手ともいえる。

途中で投げ出すことなく内省的に考えきることは、きちんと考えきってさえいればそうそう悪い方向にはいかない。無思考に選んだ手はランダムなりにしか機能しないけれど、悩んで取捨選択すればそのぶんだけ流れ着く先の平均は持ち上げられる。

うじうじ悩んでないでさっさと切り替えろというのは、悩み過ぎると気が滅入ってくるからほどほどにしておけというぐらいの一般論にすぎない。もし悩み抜ける性質を持っているなら、悩んでおくのは悪いことではない。「なんとなく」で放り出したり「考えさせられる」で結ぶよりはるかにマシである。

真剣に悩み抜く人については、それが何に起因するどんな悩みであれ尊重したいと思う。自分についても、思考停止せず積極的に悩む姿勢は捨てずにいたい。