shigusa_t’s diary

当たり前の疑問を口に出せる人になりたい。

表現の自由と暴力の狭間

表現の自由に関する試書 - tsukaki1990@blog

この記事から色々と考えたこと。元記事とは重なっている部分もそうでない部分もある。

現実に理想的な表現の自由が体現されていることはほとんどないし、それは自由と暴力が紙一重だからだよなあという話。

表現とは何か

以下の論では表現を、「個人の思考によって生まれた何かを他者に伝達する営み」として定義したい。

たとえば、「本日X時にYでZがありました」と表明することは表現ではないと思われる。 これは事実の伝達にすぎない。起きた事実をそのまま伝えようとすれば、誰が書いてもこのようなテキストになる。

しかし、「本日こういうことがあって、素晴らしいと思った/けしからんと思った」というところまで推し進めると、これは表現であるといえる。 なぜならば、ある事実を受け取り、そこから立ち現われてきたその人の心の動きをまさに「表現」しているから。
異なる人が全く同じ感想文を書き出してしまうことはあるだろうが、その文の背景にある思考は全く同じではあり得ない。個人の文脈によって、それぞれ異なる何かと関連付けられて浮かび上がってきている。

表現と表現でないものの区別はひとえに、ある人間の内心で起きたなにごとかの発露になっているかどうかに尽きる、と私は考える。

回りくどい言い方を避ければ、個人の頭の中で考えたことを表明してさえいればそれは表現だといって差し支えないだろう。 大部分が事実の表明であったとしても、そこに個人の意見を付与していれば表現たりうるし、逆にトピックが人間に関する思索であっても、ただ他人の主張を受け売りしただけでは表現たり得ない。

元記事の主張で特に注目するべきところは、表現は受信をもって成立するという部分。

注意点として、発信者の動機は考慮せず、受信者の側で何らかの情報・感情が受信されたことをもって評価する。

表現の自由に関する試書 - tsukaki1990@blog

これは全くその通りだと思う。受信されなければ伝達は成立しない。

自分の頭の中で完結してしまえば表現にはならない。また、自分しか読まない手記にしたためても表現にはならない。
しかし、その手記を誰かが拾って、目を通したその瞬間に表現は成立する。質的にも、書き手の意図とは関係なく、受け取られ方によって表現の内訳が決まる。

表現の自由」の現状

では、表現の自由とは何を指しているのか。 上記の定義から、「誰もが、自らの思考から生まれた何かを、他者に伝達するという営みを妨げられないこと」になるだろう。

問題としたいのは、現実においてこの表現の自由が理想的な形で実現されているのかどうか、ということ。

そうなっていないのは実感からも明らかだと思われる。われわれは常に、本心を表明できない環境の中で、社会との駆け引きを要求されている。

では何が原因でそうなっていて、より理想的にしていくためにはどうすればいいのか。

表現の自由を脅かす現実的諸問題

表現の自由を脅かす主要因は大きく分けて3つあるのではないかと思う。

伝達手段の欠如

自身の思考を広く表明したいと思っても、そのための手段がないこと。

今はネットがあるのでこの問題が致命的になることは少ないが、金銭的困窮などで伝達手段を失うことはありうる。 また、同じネットというツールを共有していても、リテラシーやネットワークの構築能力によって伝達能力の差は生まれる。

人間関係や社会的属性による制約

例えば雇用関係上の上位者に対して自由に考えを表明することは困難。 彼らの心象を害すると、属性的な優位性や報復能力によって抑圧される可能性があるため。

親、年長者、権力者なども持論を述べにくい相手になりうる。

法による制約

名誉毀損など、表現の自由と競合する法理が存在すること。

表現の自由とその制約

前述した3点のうち、特に法による制約が存在していることは、表現の自由という大原則が無制限には成立しないことを既に示しているように思える。
少なくとも、表現の自由や思想信条の自由を振りかざして言葉の暴力で他者を切り刻むことは、公益に反すると解釈されているということになる。

これは、言い換えれば、表現の自由が実際には暗黙に「誰かを傷つけない範囲での自由」として運用されているということである。

この「誰かを傷つけない範囲」の解釈が困難なために、様々な問題を生んでいる。

  • 表現の名のもとに個人のプライバシーを暴き立てる文学作品は、被害者に恥辱を与える。許されるべきだろうか。
  • 表現の名のもとに未成年の仮想的な少女を暴行する漫画作品は、読むものに嫌悪感を与える。許されるべきだろうか。
  • 表現の名のもとに銃やナイフを振り回して戦争する映画作品は、観るものに恐怖を与える。許されるべきだろうか。

どこまで許されるのか。自由と暴力の線引きはどこなのか。 これこそが、今「表現の自由」が抱えている問題の本質なのではないかと思う。

表現の自由」のために

この線引きの問題は個人の解釈に依存するため、誰もが納得の行く形で決着することは困難だろう。

しかし、線を引く以外にも、表現の自由のためにできることはある。要は、誰かが傷つかない範囲で表現できるように工夫していけばいいのである。

例えば、ゾーニングという手法がある。 暴力や性的描写が観るものを傷つけうるなら、社会的に年齢制限を施すことによって、作品が傷つけうる人々の目に触れないようにすればいい、という発想だ。
これは誰かを傷つけるリスクを抑えられるし、元々ターゲットにならない層を弾いているだけなので、表現者にも不利益はない。合理的な仕組みである。

その作品を世に出すことで、誰が傷つくのか。それを緩和するために、どのような仕組みを作っていくべきか。今求められているのはこの種の思考だろう。
表現者側にこれを考えることを強いるのは重荷ではあるが、表現者自身のために業界全体として考えていかなくてはいけない問題である。

なにより重要なのは、表現の自由という概念をきちんと社会で共有することだと思われる。 「○○な表現はけしからんから廃止するべきだ」という考え方がマジョリティとして残っている限り、表現者は常に抑圧され続ける。

特に、片務的な自由に陥らないようにする必要がある。 女の子を陵辱する表現が世に出ることを規制するなと叫ぶなら、男の子同士が絡み合う表現が世に出ることも受け入れなくてはいけない。 当然、その逆も然りで、BLの権利を主張するなら陵辱ものの権利も受け入れる必要がある。

自身が好む好まざる、理解できるできないにかかわらず、ある表現が生まれ、育ち、広がっていく一連のプロセスを受け入れなくてはいけない。 これは存外に難しいことでもある。大勢が理解しようとする方向に舵を切ったとしても、定着するまでには時間がかかるような気がする。

ある学者がその論敵に送った台詞に、「お前の主張には一切賛同できないが、お前がその主張をする権利だけは死んでも守る」というものがあった。 表現の自由が真に適用されるのは、きっと社会を構成する大多数がこの台詞に心底同意できる程度に成熟した時なんだろうな、と思う。