shigusa_t’s diary

当たり前の疑問を口に出せる人になりたい。

ブログに書く文章を少し綺麗に整えたいなと思い始めた。

自分が何故だらだらと長くテキストを書くかというと、読み手の背景知識による影響をなるべく少なくしたいから。
まともに書くと専門用語がずらずら並びそうな面倒くさいトピックを論じるとき、それぞれの語に関する読み手の事前知識を前提にすれば確かに短く簡潔に書けるけど、大多数の人にとっては意味不明な文章になってしまう。

もっと一般的に考えても、言葉を使って意味を制約するほどその言葉が意味する範囲は狭まっていく。 誤解の余地のないように、誰が読んでも比較的同じように「わかる」ようにするためには、なるべく言葉を尽くして「あれでなく、それでもないこれである」と表明することが望ましいことがわかる。

例えば以前のエントリで書いた社会的な多様性を実現する意義がうんぬんかんぬんといった文章の大部分は、 たとえば「最適化問題におけるGAの突然変異のアナロジーとしてのダイバーシティ」と、たったこれだけの言葉に書き換えることもできる。

二つのテキストが指し示すものは同一でも、表現の質としては異なる。 後者のような書き方をすることは、潜在的な読み手の一部を置き去りにする一方で、簡潔さと知的な(あるいは衒学的な)印象を得るトレードオフになっている。

たまに学者やエリート層などに後者に全振りする文章を書く人がいる。
それは限られた層との意思疎通や、限られた層以外への威圧やごまかし、自身に対する権威付けとして有効に機能する一方で、多くの人に正しくものごとを伝えるという機能を放棄しているように思える。ちなみに私は円城塔が大嫌いである。

外に向けて書く以上、私はテキストの「伝える」側面を重視したい。
だから、例示を使ってある程度一般的な前提知識で概略を把握できる程度に翻訳したり、必要に応じて読み手が知識補完できるような糸口を残しておく必要がある。この方針は変えない。

とすると、やるべきことは、

  • 論旨として重要な部分には今まで通り言葉を尽くす
  • 伝えたいことがきちんと伝わる範囲で言葉を簡潔に切り崩し、いらない部分は積極的に削る
  • 論旨と離れた装飾的部分については、望む効果に合わせて適切な加工を加える

という三点になるのかな、と思う。

きちんと詰めた思考を垂れ流す記事はどうしても長くならざるを得ないので、これを意識したところであまり変わらないような気もする。
ただ、それとはまた別個に、簡潔さの側面、装飾的要素の側面に重きを置いたテキストを書いてみてもいいかもしれない。

元々文章読本の類を読むのは結構好きな方だし、どのみち書き続けるんだから毎度少しでも気持ちのよいテキストに仕上がったほうが嬉しい。
これからも書きたいことを書きたい時に書きたいように書く方針でこのブログは続けていくだろうけど、せっかくなので無理のない範囲でこだわってみようと思う。