shigusa_t’s diary

当たり前の疑問を口に出せる人になりたい。

「意識が高い」の分類

「意識が高い」という形容がここ数年で一気に市民権を得たような気がする。

ネットの人なら把握してるだろうけど、この言葉は婉曲な侮蔑語としての役割を持っている。「意識が高いなあ」という感想は、「高尚そうなことをやって悦に浸っているなあ」と読み替えることができる。

人によってこの言葉の使い方に結構ブレがあって、純粋な褒め言葉としての用法から上記のような辛辣な皮肉としての用法まで、観測範囲だけでもさまざまな運用がなされているように思う。
もはや気軽に使える表現ではなくなってしまった感があって、誤解があると面倒だし普段はこの言葉を使わないようにしている。

この「意識が高い」の皮肉的用法については、それが本来非難しているものを踏まえれば、ある程度理解はできる。(だからといって自分もそれに同調しようとは思わないが)
ただ、その非難が、「意識が高い」という言葉に紐づけて行われてしまうことには危険を感じている。
というのも、「意識が高い」が揶揄するところの「残念な意識の高さ」とは別に、「真っ当な意識の高さ」を持っている人もいるから。

ここでいう「残念な意識の高さ」と「真っ当な意識の高さ」は分かる人には自然と区別して理解されている気がするけど、実際何がこの二者を切り分けているのかを少し考えてみた。

「残念な意識の高さ」と「真っ当な意識の高さ」を切り分ける要素

大きく分けて3つあるように思う。

1. 形だけなぞっているか、目的意識を持っているか

一つの主要な条件は、形だけなぞっているか、それとも目的意識を持っているかという点。

「意識高い系」の象徴的なスタイルとしてよく揶揄されるのが、「スタバでMac」という組み合わせ。
大学入学と同時に理由もなくMacを買って、意味もなくスターバックスに持ち込んでこれ見よがしに開いて、さも忙しそうに、まるで見せつけるかのように作業をする人たち。
この手の人を遠巻きに観測しながら人々は彼らを意識が高いなあと評して笑うわけだけど、ここには確かに揶揄されるに足る理由が存在しているような気がする。

根本的な問題は、彼らの行為に必然性がないこと。
「真っ当な意識の高さ」を持っている人が自然に「スタバでMac」にたどり着くことはあって、そこにはそれなりの必然性がある。
彼らがMacを使うのは、例えばiPhoneアプリの開発にあたってMac環境の確保が必要だと知っているから。アプリを作って公開したいという彼らの目的上、そういうマシンを買うことは自然だ。
彼らがスタバで作業するのは、たとえばチームメンバーとの待ち合わせの際に時間を有効活用したいから。あるいは人の目がある方が集中できる質だから。出先で居座れて無線LAN環境があるのはスタバぐらいだから。このあたりは何でもいいけど、ともかくその行動を導くだけの動機がきちんとある。

こういう理由があるなら、どこで何を使って作業しようが何もおかしなことはない。個人の目的に向かって真っ当に前進していて、そのために効率のいいやりかたを選んでいるだけだ。この手の行為は本人も納得ずくなので堂々としている。

それを傍目に見て、何か格好よさのようなものを感じて、第三者が本質を理解せず形だけ真似るから滑稽とされてしまう。いわゆる「中二病」の揶揄にもよく似ていると思う。
「本質を理解せずに形だけ真似して失敗する」というのは古典的な落語でも良く出てくるパターンで、これを笑うのは日本人の感覚としては自然なことなのかもしれない。時そばだってそういう筋になっている。

しかし、そういう笑い方が存在するのは確かだとしても、創作上の登場人物ではない、あくまで真剣にやっている個人に対して冷笑で応じる態度が望ましいかは別問題ではある。これについては本題とずれるので後述。

2. そこにナルシシズムがあるか

もう一つはナルシシズムの有無。

「スタバでMac」という行為自体になにか優越感のようなものを感じてひけらかしている場合、残念な方に見られがちだと思われる。
これみよがしにSNSでシェアしたり、さも自慢げに会話の中に持ち込んだりすると「ああその行為を自分に酔ってやってるんだな」と思われることだろう。
「すごいでしょ」だけならまだかわいいものだけど、「褒めて褒めて」や「お前もこうしろ」がくっついてくると実害まで生じる。

これも手段として自然に「スタバでMac」を選ぶ人には見られない行動。
彼らは仕事の効率的な遂行上仕方なくそれを選んでいるので、別に言いふらすようなことではない。
この種の自己陶酔を見ると、前述した必要に迫られてやってる側の人は見ていていたたまれなくなるのでは。

3. そこに実績があるか

分かりやすいところで、ちゃんと結果を出しているかというのがある。
高級な道具を使って高尚な目的を掲げて何かやっているように見えるけど、その実何も意味のある成果を残せていない場合、「意識が高い(だけ)」というレッテルを貼られがちになる。

「意識が高い」の何がまずいか

この3つの基準で両極端に振ってみると、「意識が高い」というレッテルは「見よう見まねで自己陶酔しながら虚業をしている人」と「目的に向かって謙虚に努力しながら実績を上げている人」の両方に刺さることになる。
前者はまあ困った人なんだけど、後者は単純に優秀な人であって非難されるべきところはどこにもない。
にもかかわらず、前者に対する皮肉としての「意識が高い」が勢いを持つにつれて、後者の人々に対しても適用されてしまっているよう思える。

揶揄としての「意識が高い」を後者の人々に使うのはそれこそ本質を理解せずに形だけなぞっているだけなんだけど、二者が表面上同じように見えるためか、結構な頻度で見かける。
目的意識をもってやってる人はそのぐらいではへこたれないだろうけど、それでも不快な気持ちにはなるんじゃないだろうか。
それで優秀な人たちが萎縮してしまうのは、端的に言って損失だと思う。

もはや「意識が高い」という形容は侮蔑語化してきているし、上のようなリスクもあるので離れたほうがいいと思う。
真っ当に努力している人には別のラベルが与えられるべきだと思うし、この二者をきちんと呼び分ける呼称を作れないかと考えてたけど、結局適当そうなものは思いつかなかった。
呼び分けるということは前者だけをターゲットにした新しい揶揄語を作るということになりかねないし、そういうのは趣味じゃないのでやめておく。

そもそも真剣にやっている個人に冷笑で応じるのはよいことなのか

ここから先は私見なんだけど、この記事でいうところの「残念な意識の高さ」も、それと並べた「中二病」や、本質を理解せず形だけなぞる行為も、決して悪いことではないと思う。
本質を理解しないで形だけなぞるという行為は、すでにその道でやっていく感覚を身につけた人から見れば確かに滑稽なのかもしれない。そこに自己陶酔があったり、その上なんの実績も出ていなかったりすると、なおのことおかしく見えるだろう。

ただ、それはある個人が試行錯誤しながらその道に入っていく過程としては自然な方法なんじゃないだろうか。
武術の入門で、師匠に言われるがままに型の練習をすることは決して無意味ではない。はじめは理解を伴わずにただ体を動かしているだけでも、様々な型を学び、それが身につくにつれて、徐々にそれらに共通する本質に肉薄していくことができる。
自己陶酔も、言い換えてみれば憧れと同一化願望だし、そこに自己の誇大化があったとしても、それが練習へのモチベーションにつながっているなら悪くはない。
実績なんて言うのは最たるもので、誰だって新しい分野に入っていけば最初は無実績だ。

全くとんちんかんな方向に走っているとか、できていないのに分かった気になっているとか、すでに熟練している側からは色々ツッコミどころはあるのかもしれない。
突っ込むのにも労力がいるから、その都度まともに相手をしろとは言わない。どうでも良い他人なら、分かってないなと思いながらも放置することはあるだろう。
それから、残念ながら狭い世界の中で全く聞く耳を持たないところまで増長してしまっているケースがあって、そういう場合はどうしようもない。
しかし、そうでないなら、それとなく正しい方向を教えてあげるとか、暖かい目で見守るとか、そういう態度で接したほうがいいんじゃないだろうか。

新しいことを始めて、なにかとんちんかんなことを言ってしまったら笑われる。だからやらない。自分で自信を持てることだけやって、他のことには踏み入らない。
こういうスタンスの人は結構いるんだけど、それが個人の選択ならともかく、周りの空気に流されてそうなっているならもったいない。

「本質を理解せず形だけなぞる行為」に対する冷笑が根付いているという話をしたけど、これは言い換えればチャレンジに対する冷たい目線ということになる。
この部分を意識的に乗り越えていかないと、新しいものや面白いものが生まれてこない土壌が定着してしまうんじゃないかと思う。

まだ結果が出ていない人たちを引きずり下ろしたり下に見るよりは、後押しできる人になりたい。
後押しというのは無思考にやれと言い放つことじゃなくて、知っている情報は提供して、誤りと分かることは正して、貸せる範囲の手は貸して。
そこにあるリスクは説明するけど、それでも前に進もうとする姿勢だけは全肯定すること。

どんな分野についても、ある程度継続していれば習熟してくるし、習熟すると多かれ少なかれ、後からくる人を上から見てしまうことはままある。
でも実際そこに存在するのは年季の差だけで、適性とか才能とか、それ以外の条件がどうなっているかは分からない。のめり込んでる期間を捨象すればフラットな関係の同好の士でしかない。

いつも適切な目線でいられるかっこいい大人になりたいなと思う。