shigusa_t’s diary

当たり前の疑問を口に出せる人になりたい。

時間の空きを見つけては発達障害関係のテキストを読み漁っている。 恐らくそういう傾向があるという程度のことはこの場でも以前に書いた気がするけど、調べれば調べるほど傾向も何もど真ん中大当たりなのではといった様相。

自分の歪みの方向性が自己矯正的に機能していたがために今まではやり過ごせていただけなのだ。 そろそろ根本的な理解と受容と、それを踏まえた自分というものの取り回し方の見直しが求められている気がする。

発達障害というワードに辿り着いたのは3年ほど前で、それ以前にもアダルトチルドレンがどうとかパーソナリティ障害がどうとか、生きづらさの原因を外部の何かに求めて調べ回ってはいた。

一方で、この種のラベルを大々的に表明してアイデンティティのように扱う人々には抵抗を感じていた。レッテルによる自己規定は単なる思考停止であり逃げじゃないか。それに、そんな属性を外部に表明してしまったら、最初から社会において偏見で割り引かれることになる。それは自らの到達可能性を狭めてしまうし、何をするにも相手の配慮を求めるような、甘えた生き方に堕することに他ならない。そう思っていた。そう思っているのだと思っていた。

しかし、本当のところは、単に自身が抱える不具性を受け入れることを恐怖していたのかもしれない。 なんといっても障害である。私は障害者である。凄い響きだ。たった一言でいままで自分がすがりついてきた「真っ当な人間」のラインから滑り落ちることができる。

冷静に振り返れば、もう随分とデータは蓄積されている。 生まれてからこの方、二十数年にわたって続けてきた「普通であること」を目指した試行錯誤に芳しい戦果が一つもないのはなぜなのか。 ある人の日常のしぐさやテキストに流れる風合いから、「こちら側」と「あちら側」、その両極への近接度合い、そうしたものを敏感に嗅ぎ分けて、その上で「こちら側」の人の思索にシンパシーを感じる自分がいる。こういう決定的な傾向にも、早い段階で気づいていたはずだ。

そこまで分かっていて、何故自己変容に望みを繋ぐのか。今後どうあがいたところで「あちら側」に行くことはできない。そういう結論に、もっと早く達することができたのではないか。

 

何はともあれ、人間は怖いし、社会は馴染みづらいし、人生はおしなべて苦しいのである。嘘偽りない本音である。認めよう。

そして、この種の精神傾向というのは、社会生活を送る上での紛れも無い障害であり、それを自分は抱えているのである。認めよう。

 

社会生活を無難に送っていくために上っ面に被せたものと、本当に自身が感じていること、求めているものは区別しなくてはいけない。

自身の不具を認めたからといって、それを広く表明するかは別問題だ。それは、少なくとも現状の日本社会においては、アイデンティティを定めるという主旨を逸脱した意味を持つ。自身の社会生活上の利益、具体的には職を得て維持する上でのあれこれと突き合わせて判断する必要がある。

逆に言えば、職のレイヤから切り離したこの場において、自身の精神傾向を隠す必要はない。隠したいと感じるのであれば、それは社会生活のための合理的判断などではあり得ない。自己と理想の落差を認識したくない、ないし他者に知られたくないと願う保身にすぎない。

そうした保身の気持ちが、今少なからず自分の裡に堆積している。この楔を引き抜けば少なくとも自己同一性の獲得の方向には一歩前進するだろう。その一方で何かが崩れ去る可能性は否定できないが。

似たような話をこのブログの1記事目にも書いていた。随分と言い訳が多いが、問題意識はやはり自己の確認と受容の周辺にあったらしい。

これからまた長い期間をかけて、同じようなところをぐるぐると回りながら自己受容を進めていくことになるのだろう。前に進んでいるのかどうかも定かではないけれど、やはり自分にできるのは悩み試行錯誤することだけだ。そういう自己の有り様を確認できただけでも、一周してきた意義はあったと思いたい。