shigusa_t’s diary

当たり前の疑問を口に出せる人になりたい。

抜け殻と蛇

インターネットにおける自分を動物に例えるならトカゲや蛇だろうなと思う。 ネットの世界に片足を踏み入れてから、いくつもの匿名のアカウントを作っては熱中し、どこかで糸が切れたかのように執着を失って切り捨ててきた。トカゲがしっぽを切るように。蛇が皮を脱ぎ捨てるように。

そのアカウントでの活動に嫌気が差したり疲れを覚えたわけではなく、一時の多忙さや他の熱中対象にかまけてやむを得ずしばらく視界から外したケースがほとんどだけれど、時間ができたからといって戻ってこれるケースは少ない。期間が空くと、その場で行った活動のすべてが、なにか取るに足らないものであったり、見るに耐えないものであったような気がしてくるのだ。蓋を開けたくなくなる。過去の自分が出力した醜いものを、そこに封じ込めておきたくなる。

「気がしてくる」という表現しかできない。事実、自ら封印したはずの過去の作品を掘り起こすと、確かに未熟でこそあれ、思ったほど悪くも見えなかったり、むしろ面白いと感じることすらある。そうした経験を繰り返すと、開けたくない蓋が生まれた時に思考の偏りに対する疑義が頭の隅に浮かびはする。しかし、それが上回ることはない。発作的自己嫌悪のようなものだと分かっていても、「開けたくない」と強く感じる。

インターネットに限った話ではない。人生の至る所で、あわよくば過去を脱ぎ捨てようとしてきた。同年代を見渡して、なぜみんなあれほどにも語るべき対象を持ち合わせているのかと感心していたけれど、当たり前だ。自分はそれを身に付ける機会を持ちながら、自ら脱ぎ捨てることを選びとってきたのだから。

アイデンティティ。日本語にして自己同一性と書くと、これを固めるためにどうすればいいかは読んで字の通りであるとわかる。自らに生じた属性を自己に取り込んで、変えることなく保持すればいい。ただ受容し、自覚し、守りぬけばいいだけだ。

一体何から逃げているのか。至らない自己を突きつけられて、それを受容することを迫られるのが怖いのだろうか。私はまだ成長できる、ここで固めるのは得策ではないと信じているのだろうか。単に、瞬間的に生じうる痛みを恐れているのだろうか。 どれも正しい気がする。その程度のことから逃げ続けているのかもしれない。

 

最後の更新から5ヶ月ほど空いたけれど、この間、このブログで書き散らした思考が明らかに自分の一部を構成していることを自覚する機会は多かった。何かの拍子にするりと、ここで見出した結論が前提事項として思考の土台に組み込まれる。口からこぼれ出る。自分の中で無意識に、比較的たしかなものとして信頼されているらしい。自分にとって比較的たしかなテキストというプラットフォームで、当時の自分にとって振るえる限りの知恵を振るって得た知見なのだから、当然のことなのかもしれない。

裏返してみて、そのような営みをせずに過ごしているここのところの日々は、自分にとってどの程度血肉になっているのだろうか。もしかすると、忘却という脱皮で日々脱ぎ捨てられる程度の厚みしか得ていないのではないだろうか。そうやって漫然と日々を過ごした先に、何があるのだろうか。点々と脱ぎ捨てられた皮の連なり。古いものは風化してもはや形を留めていない。ふと自らを顧みれば、数年前といかほども変わらないやせ細った体。

これまで、自分にとっての売り物はあくまでアウトプットであると考えてきた。自己というのは、アウトプットのための至らないインタフェースでしかなかった。ネットの世界が生きやすかったのは、「誰が」よりも「何を」が重視される、顔のない存在同士が顔のないままに生きていける場がそこかしこに散在していたからだ。 しかし、顔のない世界で許容されうるある種の振る舞いは、生身の人間が回す身体性の世界には相容れない。あなたはどのような人間なのか。あなたはどのように考えるのか。あなたは。主語は常に作品ではなく人であり、あらゆるアウトプットは人と紐付けて消化される。

人間は本来人間に興味を持つものだろうから、これは自然なことなのだろう。例えば映像作品に感銘を受ければ、まず作者や出演者の名前を調べ、その人間が関わる作品をリストアップして摂取し、果てはその人間のスキャンダル報道に一喜一憂したりする。 振り返ってみれば自分にはこの種の経験がほとんどない。感銘を受けた作品の作者から別の作品へと辿っていくことはあるが、それはあくまで質のいい作品の作者は他にも良質な作品を書いている可能性が高いだろう、という程度の、どちらかと言えば探索効率を上げるための単純な方法論に過ぎない。自分にとって、ある作者のファンであるということは、その作者が生み出す作品に惚れているということだ。作者の顔を拝みたいわけではない。作者のプライベートを掘り下げる行為に至っては忌避感すらある。

創作作品の作者と向き合うことを抑制する心の動きは、今になって思えば自分の過去の言行を封じ込めた箱を目の前にした時によく似た、「開けたくない」という気持ちによく似ている。これは不思議な一致だが、ある共通項で結べば違和感なく繋がる。 つまるところ、自分に対しても、他人に対しても、「生身の人間を消費する」という行為そのものを忌避しているのだと思う。

創作には、公開に関する裁量が付随する。公開したければすればいいし、しなければ誰に伝わることもない。であるからして、他人の公開手記を読むことには何ら抵抗はない。そこには本当に書きたくないことは書かれていないはずだからだ。 しかし、生身の身体性、精神性に関しては、その場に物理的に存在することを選んだ瞬間に、避けようもなく公開するしかなくなる。強い部分も弱い部分も。弱きを取り繕う術を持たない弱者ほど、開陳したくない手札まで公開しなければならない。その有り様が、自分の目にはひどく暴力的に映る。

その暴力的にすら見える生身のレイヤで、ノーガードで拳を差し合うスリルの上に、ある種の社会は構築されている。そこで曲がりなりにも生存していくためには、もう皮を脱ぎ捨てている余裕はないのかもしれない。着込めるものを着こみ、少しでも重みを増して、ぶつかり合いに負けないように。 何も難しいことはない。連続は同一性を導く。過去を脱ぎ捨てるのではなく着こむことを繰り返せば、自ずと法則性を見出すに足るデータ数が揃い、自己が規定される。それを認識すれば、自己は追認されさらに強化される。それだけでいい。恐らく自分は、そうであるからこそそれを望まなかった。 一貫性からすらも自由でありたいというのは、無名の世界でのみかろうじて許容される願望なのだろう。