shigusa_t’s diary

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人間の経済性と生存の原則について

【やまもといちろう氏 特別寄稿】相模原の障害者19人刺殺は思想犯と言えるのか|みんなの介護ニュース
誰にも正義は押し付けられない:日経ビジネスオンライン

この事件については真剣に考えておかないといけないように思う。 容疑者個人よりも、彼が結果的に提示した思想が問題。「社会的に貢献できない個体は社会において死ぬべきか」という命題について。

誰しも明日交通事故に遭って全身麻痺に陥る可能性はゼロではない。そうなれば容疑者の思想でいうところの抹殺対象である。 誰にとってもこの事件は人ごとではないし、私たちは理路整然とこの思想を棄却できなければいけない。

人間の経済性

大きな問題は、この思想が経済的観点からは肯定されてしまうということだ。

現代の人間は単体では生きていけない。個人で完結して生存に必要となる活動を全てこなすことは現実的には不可能だ。であるから、私達は分業し、社会を形成する。 各々が適性を活かし、社会全体に必要な要素を部分的に生産し、それを流通させることで、我々は不自由ない社会生活を送ることができている。

このプロセスの効率化だけを近視眼的に追求したとき、生産しない個体が存在する必要はなくなる。集団に対して貢献をしていないのだから、切り捨てても本来の目的であるところの集団の生存には何ら影響がない。むしろ限りある資源をただ消費しているぶん、追い出したほうが「効率的」になる。

果たして障害者が「生産しない個体」であるかどうか、という議論はできるが、本質的ではない。経済性を基準にしている以上、生産力が比較劣位なだけでも社会から除外する理由になってしまうし、もし本当に生産しないといえる状況が成立した場合、除外が正当化されてしまう。

この思想を否定したいなら、経済の土俵で話を進めてはいけない。社会における残存可能性を人間の価値の軽重でジャッジすること自体が、劣るものを社会から除外する思想に直結してしまう。

踏み越えてはいけない生存の原則

なぜ我々がこのような思想を許容してはいけないかといえば、 それはひとえに、このような思想を否定すること自体が、人間社会の存続のための最後の砦であるからだと思う。

仮に、重度障害者を死という形で排除したとする。彼らが社会に存在するのは効率的でないからという論理で。彼らが生産するものより、彼らを支えるために消費するもののほうが多い。ならばいないほうがよい、という理由によって。

これを一度許してしまうと、歯止めが効かなくなる。

自然な拡張によって次に抹殺されるのは同様に働けない者、重病人や高齢者である。彼らもいないほうが経済上は合理的だ。消費超過の人間はいないほうが生産者の負担は減る。

その次は働かないものだ。これから先労働の効率化が進み、労働者の椅子が減り、働き口にあぶれる者が出てきたとする。もし経済合理性で人を抹殺できるなら、次のターゲットは彼らになる。結果的に生産できていないものは経済的には存在しなくてよい。

そのまた次は、能力的に比較劣位な人間だ。同じ時間で10の仕事ができる人間と5の仕事ができる人間がいたなら、10の仕事ができる人間を残したほうが効率的である。劣った方は殺してしまえばいい。

むろん、人類がよほど愚かでないかぎりは、ここに行き着くまでにその無為さに気づくことだろう。社会が効率的になる一方で、常に能力で周囲をマウントし続けないかぎり安心して生存できない社会。そこにたどり着く前に、そんなものをありがたがる必要はないと悟れるはずだ。

しかし、それに気づくまでにどこまで行ってしまうか、その過程でどれだけの命が失われるかは不透明だ。一時でもヒトラー思想のようなものが一国を席巻しうるのだから、何かの拍子に行き着くところまで行ってしまうかもしれない。

そうさせないために引くべきラインは、「人間であるかどうか」でしかあり得ない。人間であるのなら、その能力如何によらず尊重され、生存のために手をつくされるべきだ。

その先には闇が広がっている。「能力」や「知性」のようなもので線を引いた日には、誰もがそれらを失う日に怯えながら生きていくことを強いられるようになる。

 

すでに我々は動物に対しては経済的合理性に基づく殺害を許容してしまっている。 家畜の生と死は経済に組み込まれている。牛や豚が生かされて殺されるのは、穀物をより高価値な肉へと変換するためのプロセスだ。愛情を注ぐために存在するペットでさえ、飼い主に見捨てられれば殺処分の未来が待っている。

容疑者は、障害者を「人間としてではなく、動物として生活を過している」と評したらしい。どの程度考えてこのように記したのかは知らないが、結果として意味のある発言になっている。もし障害者を動物とみなしてしまえば、現状の社会通念上、彼の理論は通ってしまうのだ。であるから、この論理は強く否定しなくてはいけない。どのような特徴を持とうと、人間として生まれたものは人間であり、動物へと貶める権利は誰にもない。

私達の社会において、私達の生存の権利は、私達が生を受けてからどのように変容しても恒常的に維持されるべきものだ。人間として生まれたものは、無条件に生きる権利を持つ。この前提を違えた瞬間に、社会は誰もが誰もに対して闘争を仕掛ける世界へと収束していく。隙を見せれば殺される、常に強くあらねばならない世界に漸近していき、社会が解体されてしまう。

 

今回のような事件が生じ、そのフォロワーとおぼしき人々が出現しているのを見るにつけ、こうした前提を確認していく必要性を感じる。

十分に考えぬいたうえで、あえてラインを踏み越えて経済性を追求しているのであれば、個人として同意はできないが、ひとつの思想として把握はできる。高齢化や資源の有限性を鑑みて、さもなければ共倒れだという予想も可能ではあるからだ。 しかし、そうした過程を飛ばして、経済的合理性という使い慣れた道具で人間を処理することに違和を感じない人々が一定数いることは、非常に危ういことであると思う。

また、逆に脊髄反射で短絡的に容疑者的思想を弾劾するのも問題である。上記のような経済性重視の考え方が存在することを知った上で、断固としてそれを否定できない限り、結果として彼の求める社会が実現してしまうかもしれないからだ。

否定するにせよ同調するにせよ、目先の感情に囚われて今回の事件に反応するに留まり、その思想が導きうる結末を慮っていないなら、どうか一度時間を取って自分のスタンスを確認してみてほしい。