シン・ゴジラ感想 - 兵棋演習とファンタジーの裏表
ネタバレです。未見の方は回れ右。
通り一遍の感想は出尽くしていると思うので、一番気になった物語の構造だけ突っついてみる。 この作品は、前半(兵棋演習パート)と後半(ファンタジーパート)の二部構成になっていて、それ自体が象徴的な意味を持っているように思う。
シン・ゴジラの現実(リアル)
各種の批評ですっかり聞き飽きていると思うけれど、この作品の売りはなんといってもそのリアリティだろう。
シン・ゴジラの前半の展開を一言で形容するなら、「非常に豪華な兵棋演習リプレイ」であると私は思う。巨大生物の首都襲撃というシナリオを考え、それを現実的かつ妥当なアプローチで迎え撃つシミュレーションを入念に行って、それを贅沢な形で映像に落としこんで出来上がったのがこの作品だ。
だから、「人間ドラマがない」などという批判はそもそも的外れだと思っている。恐らくそんなものを重視して作った作品ではない。
当然、あれだけの大規模な災害にあたって人間ドラマが起こらないはずはないのだけど、それは主題ではないからそこに時間を割いてはいられない。そんなものは映像の隙間から勝手に補完してくれというスタンスに見える。
通常の映像作品であれば最も重視されるであろう要素を削ってまで、とにかくリアリティを追求する姿勢が前面に出ている。これは潔くて素晴らしい。
ただ、この姿勢にはある重大な意図が隠されているように思う。
私見になるが、恐らくシン・ゴジラの「リアル」は、タバ作戦が失敗し、米軍のバンカーバスターが投下された場面で終わっている。
ゴジラの背中からビームが放たれ、米軍機が破壊され日本の上層部が全滅したあのシーンを境に、シン・ゴジラの筋書きは「ファンタジー」へと切り替わっている。
この意図的な、かつ暗黙に行われる、現実から虚構へのスライドによって、視聴者に誤読をさせるのがこの作品の狙いなのではないかと思う。
今一度、シン・ゴジラの筋書きを思い返してほしい。
序盤の展開は、例えば軍事的なシミュレーションとしても十分に通用する展開であったはずだ。
ゴジラがわれわれにとって最悪の動きをし、それに対してわれわれができる限りの対応をする。ある着手以降お互いに最善手を打った時の展開の良し悪しを想定する。これは、将棋などのAIが行う思考法と同じだ。
ゴジラを幼体のうちに殺せてしまえば理想だが、被害も少なく時間もさほど経過しないうちでは避難は行き届かない。当然兵器の使用にあたっては周辺住民を巻き込んでしまうリスクが残る。であるから最初のチャンスでゴジラを殺せないのは、起こりうる展開を反映した妥当なものであるといえる。
タバ作戦については、恐らく現在日本が保有する戦力でベストを尽くした時どうなるかを克明に描いたものだと考えられる。あれ以上の戦力を投入することはできないし、戦術的にもあれしかない。Twitter上の軍事クラスタがそうこぼしていたので恐らくそうなのだろう。少なくとも的外れということはない。
つまるところ、もし今ゴジラが東京に攻め込んできたら、基本的には我々はこれと同じ対応をすることになるし、ゴジラのスペックが同等なら結果も同じになる。自国の戦力だけでは止められず、首都圏を蹂躙されることになる。そういう血も涙もない妥当なシミュレーションだ。
自国の戦力で止められなかったらどうなるか。これも作中で提示されていたように、まずは米軍の力を借りることになる。次いで、米軍の通常兵器でも対処できず、かつゴジラが世界全体の脅威になるようであれば、国連の決議により核を落とされることになる。これも妥当なシナリオである。
ここまで妥当に妥当を重ねた展開になっている。しかし、ゴジラが光線を吐き出して以降はすべてがひっくり返る。
シン・ゴジラの虚構(ファンタジー)
ゴジラビームの被害がまず恣意的だ。
飛行物を無条件に撃ち落とすという光線の特性によって、唯一ゴジラに傷をつける威力を持った米軍の通常兵器は使えなくなる。結果的に国内でのゴジラ対応は日本に主導権が戻る。
また、ある程度の成果をあげていたとはいえ、硬直的で状況に対応しきれなかった上層部は危機的状況に際して邪魔でさえあった。これがまとめてお亡くなりになる。
ゴジラの光線は都市一帯に致命的な被害を及ぼすが、何故か巨災対のコアメンバーは全員が生き残る。
生き残った巨災対メンバーは早期からゴジラの弱点としての血液凝固剤に着目していた。これもまた運が良いことこの上ない。
そこからトントン拍子に――まるで神風が吹いたかのように――その作戦を正当化するような材料を得続けて、無事実現可能なところまでこぎつけてしまう。
偶然日本人を祖母に持つ米国大使の協力をとりつけるし、たまたま個人がフランスにパイプを持っていたおかげで核投下を遅延させることに成功する。
線路上かつ大型ビルの側で都合よく休眠していたゴジラ。
これを運良く転ばせて、「食べない」はずのゴジラの口に薬剤を流しこんで摂取させることに成功する。
大した波乱もなく、無事作戦は成功してしまう。
この落差である。
例えば「巨大生物襲来時の対応シナリオを真剣に検討しろ」という課題を与えられたとして、序盤のようなシミュレーション結果を提出したら、及第点になるだろう。今日本が持つリソースを正しく評価し真っ当に運用した結果だからだ。
しかし後半の展開を述べようものなら赤点だ。幸運に幸運を重ねたごくか細い可能性にすがったにすぎない。戦略としてストックしておけるようなものでは到底、ない。
私は別に日本という国のポテンシャルを過小評価したいタイプの人間ではない。
けれど、この作品をじっくりと鑑賞した上で、「日本の科学力は凄い!」「日本の団結力は素晴らしい!」「日本はまだまだやれる!」と言わされてしまったら。
それは、完膚なきまでの負けだと思う。(庵野監督にとっては大勝利だろう)
あの前半の過大なリアリティに引っ張られて目を曇らせてしまってはいけない。
シン・ゴジラは確かにリアルだが、それは前半までなのだ。後半の日本の底力大爆発シナリオは希望的観測にすぎず、まるで戦時に大本営が描き出したかのような「虚構」なのだ。
これは明らかに意図的な演出である。そうでなければ、象徴的なゴジラの覚醒の場面を挟んで、これほどにリアリティの落差をつけるはずがない。
我々はこの演出に気づかなくてはいけない。
そして、認めないといけないのだと思う。
もしこのような事件が現実に起きたら、我々は米軍に全てを任せるか、甘んじて核を落とされるかしかないのだ。
これが結論である。決してヤシオリ作戦には、日本人の美しい連帯による逆転劇には辿りつけない。
もちろんゴジラそのものが虚構なのでこんな事件は起きようがないのだが、シミュレーション上はそうであるということだ。
この不都合な現実を受け入れるのか、それとも最後まで目をそらしつづけるのか。庵野監督はこうした問いを我々に突きつけているように思えてならない。
シン・ゴジラに託されたもの
この作品における二部構成の意図は、少々の皮肉と、それを超えて余りある、日本という国への発破なのではないかと私は思う。
偶然に偶然が重なって成功した巨災対のシナリオ。これは虚構であると同時に、日本に不足しているものを克明に描き出している。
- 若く柔軟な頭を持った人材を中枢に配置できているか。
- 素早い意思決定のためのフレームワークは整備されているか。
- 「首を斜めに振らない人材」を重用しているか。
- 科学にきちんと投資しその恩恵を得ているか。
- 「汚い外交手段」をきちんと使えるか。
- リスクを取って斬新な作戦に全リソースを集中できるか。
何もかもが示唆的だ。もはやお説教にすら聞こえてくる。
この作品の下敷きになっているのが、福島の原発事件であることは疑いないだろう。
必然的に、この作品はあの事件に対する振り返りの要素をはらむことになる。
広い層にヒットしていることからもわかるように、シン・ゴジラは優れた娯楽作品である。
娯楽としてそのまま受け取ってもいいのだろうが、そこに託された思いをそれぞれが少しでも意識することができれば、素晴らしいことだと思う。
これほど多くの人に受け入れられているだけに、国全体として一歩前に進むことすらできるかもしれない。そういうバランスを意図したのかは不明だけれど、結果としてそうなっているのは得難い成功だ。
壮大な可能性を秘めた作品であると思う。
型を破ってこれだけのものを形にした制作陣に最大限の賛辞を送りたい。