shigusa_t’s diary

当たり前の疑問を口に出せる人になりたい。

思考と多様性

ただ、思考だけが在る場所へ - deschooling web http://deschooling.hatenablog.com/entry/2015/11/16/012632

人間の思考は多面的で、ときとして一貫性を持ちません。しかし、現実での人間の発言には一貫性を求められます。さらにはその人の一面にしかすぎない価値観や属性(男女、右翼左翼、職業などなど)に矮小化されることもあります。統一的な自己でなければならないという現実の要求が、実は考えるということを脅かしている、と私は考えています。

社会的な属性がその人の思考の発露を制約しうるというのは常々感じていて、だからこそこういう場で語ることを選ぶに至ったわけだけど、さらに推し進めて、そもそもの一貫性すらも思考の制約になりうるのでは、という趣旨のコメントを頂いた。考えたことのない視点だったけれど、個人的にはすごく納得できる。

これに関して自分なりに考えてみた。書き終えてみると元記事の論旨と似たような主張になってしまったけど、恐らく通った思考の道すじは異なっていると思うので、書き出しておきたい。

思考の一貫性は必要であるか

たとえば、ある問題に関して昨日の自分が考えた末に賛成であると表明し、今日の自分がまたゼロから考え直した結果反対であるという結論に至ることは、一般的には非難に値することであるように思う。少なくとも政治家がこういう手のひら返しをすれば非難囂々だろう。

だけれど、現実にはこれはままあることだと思う。少なくとも私は、振り返ってみればこういう経験は結構ある。さすがに昨日今日ではそっくり意見が入れ替わったりはしないが、一年前と今日、どちらも同じ事について考えていて、全く別の結論に至っており、しかもどちらも筋が通っているように見えるということは少なくない。

理系的な、演繹的ないし論理的な学問を行う場合は、こうした矛盾は起こらない。ある仮定があって、その仮定から、定められた手続きのみを行って洗練していくのが演繹的学問である。だからこそ複数の異なる意思を持つ人間が、仮定と手続きさえ納得ずくなら、同じ問題に関して同じ結論にたどり着くことができる。この種のプロセスにおいて、結論の変動は許されない。結論が変動するのであれば、演繹の過程にミスがあったということだ。

ただ、文系的な、帰納的ないし直感的な学問においては、結論の変動は決しておかしなことではない。まず現実の材料から、帰納や想像を広げて、有益な仮説を導き出すのが文系的学問の仕事であり、手にしている材料が変われば結論も変わりうる。その後にそのアイデアの是非正誤を検証するのは演繹ないし論理の役割である。検証プロセスを越えて生き残りさえすれば、綿密な議論から導かれたアイデアであろうが、単なる勘で降ってきたアイデアであろうが、その価値は変わることがない。

つまるところ、仮説の創造という目的においては、一貫性はそれほど重要でないのではないだろうか。「同一であれ」「一貫せよ」「誰にとっても同様に辿れるロジックであれ」というのはあくまで自然科学的な議論における再現性の要請にすぎない。あたかも一般的に、どんな問題に対してでも適用されるべき原則であるように叫ばれてこそいるが、演繹の前段階であるところの仮説の創造において必須であるとは言い切れない。

思考の一貫性が必須である、有益であるというのは、実のところ限られた領域でのみ通用する論理なのではないかと思う。

ダイバーシティイノベーション

近年はダイバーシティ多様性)が重要である、といわれるが、ここには上記のような、仮説の創造というフィールド特有の事情があるのではないだろうか。

社会はイノベーションを求めている。イノベーションというのは、噛み砕いて言えば、今まさに必要とされていて、手の届くところにあるのにも関わらず、思いつかれていないがためにつかみ取ることができていないアイデアであるとも表現できるだろう。

イノベーションとなるアイデアが容易に得られないのは、ひとえに演繹でたどり着ける範囲の外にあるためである。もし演繹でたどり着ける範囲にあるのであれば、誰にでもたどり着きうるし、誰かがいずれたどり着く。そうではなく、全く非論理的に、あるいは広く知られていない、広く重要とは思われていない情報や手続きからそれを組み上げることによって、これまで未発見であり、しかし演繹にとって必要な土台となるところの仮説にたどり着く。これがイノベーションのプロセスである。一度イノベーションが起きると、それを土台とした演繹が広く網の目のように広がっていく。

演繹的プロセスが行うことは、数学的なアナロジーを用いれば、うねうねと波打った多峰性の関数があったとき、ある開始地点を定めて、そこから上方に登っていき最大値へと進んでいく、いわゆる最適化である。が、この山登り的な方法は、往々にして局所最適解に落ちる。関数の全体にはより高い山(大域的最適解)がある場合でも、山登り法は今登っている山の頂点にしかたどり着くことしかできない。

こうした局所最適解の問題に対応する手法の一つに、遺伝的アルゴリズムというものがある。これは、さまざまな解に対応するデータとして構成した遺伝子をばらまき、それぞれの遺伝子を交雑させ、生まれてきた世代のうち、成績の良いものを残して他を淘汰するプロセスを擬似的に繰り返していくというものである。

このアルゴリズムの肝として、突然変異のシミュレーションがある。単に直近の評価が良い特徴だけを残していっても、結局局所最適解の周辺に個体が集中していき、そこに収束してしまう。そのため、ある程度予測不能な変化をする突然変異の個体を一定数作る。そうすることで、天井に達してしまった次善の解から最善の解に移っていくことができる。

ここでいう突然変異は、人間の社会における突出した個性であるとも言えるし、あるいは誰にも知られることなく、誰かのノートに書き記されたまま忘れ去られていくアイデアでもありうる。

もはや人間の演繹の技術は十分に進歩してきていて、山を登る手法は確立している。だからこそ今ダイバーシティが叫ばれるのではないかと思う。新たな仮定そのものを生み出すプロセスにおいては、アイデアの飛躍、平均からの逸脱こそが意味を持つ。戦略的に突然変異を生み、それを検証するプロセスを繰り返していかなければ、今の山は登れても別の山を見つけられない。

枷としての一貫性

何が言いたいかと言えば、局所最適解から抜け出すことを目的に据えると、突然変異や飛躍、逸脱した動きこそが意味を持ち、それは積極的に保護していくべきであるということ。 大多数の個体がスタックしている局所最適解は行けばたどり着けるだけに魅力的であるけれど、可能性というのはその外側にこそある。

外側を選ぼうとすると大多数の解は現時点より明らかに悪い、検証に堪えないものになりかねないけれど、そのリスクを取らなくては前に進めない。その中で浮かび上がってくるような、生存可能な突然変異を作れる人が、真にイノベーティブな人間であるといえる。

例えば、よく「中二病」が揶揄されるけど、あれほど貴重なものはないように思う。まともな年齢になってから創作を始めると、それまで感銘を受けた多数の作品に引っ張られた思考からスタートするし、力のある作品は世の中で広く共有されているから、影響される方向性も多数の中では凡庸なものになりかねない。そういう束縛から自由な、まっさらな感性そのものから生まれてきた彼や彼女の思う「かっこよさ」「かわいさ」「美しさ」の表現には無限の可能性が詰まっているし、尊重されるべきものなのではないか。きっとああしたまぶしい感性の発露の中に、未だ見いだされていない文学の種があるのだろう。

そして、こうした観点から言えば、確かにその人自身の時間軸の中でさえ、その人の思考は自由であってよいのではないかと私は思う。

人間が成長するというのは経た知識や経験によって当人の判断基準の重みが変わることであると私は考えているが、その変わっていく自分を、意見の一貫性、社会的キャラクターの維持のような観点で押しとどめてしまうのは、イノベーションの視点からはむしろ損失ですらありうる。

もちろんこれは一般には通用しない話で、社会において、会う度に人が変わっているような人間と付き合うことは困難だろうし、仕事というのは安定した成果が望めるからこそ受け渡されるものであって、社会生活を送っていると同一性を保つことが合理的な場面の方がはるかに多い。

しかし、こと思索の場面においては、同一性の保持は創造性のための枷にもなりうる。一貫するべきという方針そのものがすでにもう思考の幅を狭めている可能性がある。もし明日の自分が今日の自分と一貫していないのなら、それは社会的にはともかく、多様性の確保の観点では資産であるといえそうだ。

匿名論壇の意義

これまで見てきた古きよきはてな村なるものとか、2chとか、今はもうなくなってしまった論客コミュニティなんていう掲示板もそうだったけれど、ああいった場では匿名でありながらもすごく熱量のある議論が繰り広げられていたように思う。

そうしたコミュニティで活発な議論が生じ得た背景には、個々のユーザが自らの属性から自由であり、ことによっては一貫性からも自由であり得たことが少なからず影響していたはずである。

今は上にあげたどのコミュニティもほぼ役割を終えてしまっているようで、それ自体は残念でならないが、たとえばこのはてなブログというコミュニティの中でも、あちこちで小さくそうしたものが息づいているように感じる。 今ざっとはてなブログを見渡しただけでも、アクティブに思考を発信しているブログがいくつもあって、どれも一括りにできないような多様性に満ちていて大変面白い。

今回なにげなく書き残した自分の思索に対して言及をいただけてすごく嬉しかったし、またそれをきっかけに自分一人では辿りつけなかったかもしれない思索に至ることもできて、刺激になった。 願わくば、今後も色々な人と思考を交わしてみたいなあと思う。

国立電子図書館を作るとどうなるか

図書館なんていらないよね。国立電子図書館を作ればいいじゃん。 | 怪盗ぶらり団

図書館を全廃して電子化し、一元管理する国立電子図書館を作り、定額で閲覧させるというアイデア
非難轟々だけれど、誰しも一度は考えそうな構想ではあると思う。具体的にこれの何がまずいのか、ちょっと考えてみた。

最大の問題は出版市場が立ち行かなくなることであるというのは容易に想像できると思う。これについては元記事も考慮している。

コンテンツの摂取だけ考えれば全て定額の電子的な貸し出しで済むので、本を買う必要がなくなる。その結果、出版社は採算が取れなくなる。

じゃあどうすればいいかというと、国が出版社を買い上げればいいというのが元記事の主張。 現状の図書館運営費は相当なもので、それを出版社に直接流し込めばあとは国民のわずかな負担だけで現状の出版社は維持できる、とのこと。

思考実験をしたいだけなので、細かい計算の正誤真偽は置いておく。
(現状の図書館の運営費+わずかな図書館税)>(現状の出版社の毎年の利益+電子図書館の運用コスト) と仮定する。
つまり、現状と同じ国家予算と、国民が負担する若干の定額料金を出版社に回せば出版社の業務は今と同じレベル以上で回ると考える。

構想通りに実践してみたとして、結果何が起こるか。

思考実験:国立電子図書館

晴れて国民全体に電子図書館へのアクセス権が与えられたとする。 国民はシステムを使いこなし、その時点で出版された全ての書籍にスムーズにアクセスできるようになったとする。どうなるか。

まず最初に、出版という枠組みが市場原理から離れることになる。

紙媒体の出版が生きていた時代、出版サイドは売れるものを作るという目的のもとに企画を立てたり作品を選別していたわけだけど、そこが宙ぶらりんになる。

単純に出版冊数に応じた金額を流しこむだけだと出版社は間違いなく腐る。ので、金額の流し込み方は工夫しなくてはいけない。

妥当な解決策は、読まれた回数に応じて予算を傾斜配分するシステムを構築することだろう。

この場合、これまでなるべく多くの本を売るということを突き詰めてきた出版社は、なるべく多くの回数電子的に借りられるということを目指して作品を企画することになる。 一応競争原理も働き、質の担保も行われる。

しかし、重大な問題がまだ残っている。売上の配分が紙の時代と比べてズレていくことだ。

紙の本より価格が落ち、かつ定額で処理されることで、「時間がなく、金が余る人」よりも「金がなく、時間が余る人」の選択が売上に大きく反映される。 結果として、難解な本よりキャッチーな本に人が群がり、読み手の数が限られる専門書は割に合わない存在になっていくことが予想される。

今でも学術書は図書館に所蔵されることや研究費で購入されること、教科書として購入されることを前提に割高な設定をして読み手の絶対数とのバランスをとっているものが少なくない。

恐らく、そうした本が生き延びていくことは困難になるだろう。 娯楽作品にしても、一般受けする限られた売れっ子だけが生き残り、玄人好みの作品は敬遠されていく。

ここから、現在の出版業界の多様性

  • 多数による低価格な本の購入
  • 少数による高価格な本の購入

の二本柱で少なからず支えられているということがよくわかる。 電子図書館に全てを預けるという選択肢は、市場原理によってもたらされたこの柱を砕いて、閲覧数あるいは国が決めた何らかの基準にまとめ上げるという結果を生む。

多様性を失うか、恣意性を加えるかのどちらかを取らなければいけなくなる。そして、こと書籍(表現、言論)というフィールドにおいては、そのどちらもが致命的になる。

その他の諸問題

  • 周辺業界の継続が困難
    書店は機能しなくなる。印刷業も大幅に縮小する。古書店も供給を絶たれてじわじわ廃れていく。そこからの二次波及まで考えると、実施後の市場がどうなるかの予想は難しい。

  • 電子端末が必須になる
    PC、タブレット端末などを持てない人々、有効なネットワーク接続を持てない人々、電子端末を使いこなす術のない人々を切り捨てることになる。

  • 国サイドが言論を統制しているような構図になる
    政権がトチ狂って図書館制度を弄ったり図書館予算を減額するだけで知識へのアクセスがおぼつかなくなる。予算配分基準で容易に言論をコントロールできてしまう。

  • 出版の新規参入の問題
    誰でも出版できるようにすると敷居が下がりすぎる。基準を設けると国側が主導権を握ることになるのでよくない。

結論

少なくとも図書館側に統合すると多様性や表現言論の自由が担保できないし、面倒な問題がいくつも湧いてくるので現実的じゃないよね、というのが結論。

すっきりしない話だけど、現状の図書館が不便であるからこそ、図書館と出版は今なんとか共存できているんだなあというのが改めて確認できた。

出版の役割として、「一定品質に達しない文書を世に出さない」「多様性を担保する」「権力から独立する」という部分は意外と大きくて、むしろ予算面よりこっちの解決に頭を捻らないといけない。

学術論文なんて全部オープンアクセスにしろよと何度思ったことかわからないけど、それをやってしまうと査読のプロセスが死んでノイズだらけになってしまう。 だから(今学術誌の出版が要求する金額が妥当かはさておき)一定の金額は読者に負担させる必要がある。

限定的に実現するのであれば、一考の余地があると思う。絶版本に限るとか。いま青空文庫がやっているのはそういうことだろうし。

本質的な問題は出版と利益競合することで現状の紙媒体出版プロセスを潰してしまうことなので、そこに触れない範囲で緩やかにオープンにしていく方向なら実現の道はあるかもしれない。

思ったことを素直に書いても殴られるのは自分の人格だけで済む場所が欲しくて、新しくTwitterアカウントとブログを作った。

数年前まではそういう場がTwitterだったんだけど、Twitterアカウントとひも付けて色々活動をしているうちに現実で面識がある人とも繋がる羽目になって、さらにはTwitterアカウントを仕事がらみのポートフォリオとしても利用するようになって。滅多なことは喋れなくなってしまった。 チラシの裏のつもりで使っていたものが、気づけば名刺になっていたらしい。

ネットで喋れないでいる間にも色々と心の葛藤があって、心持ちもずいぶん変わった。 どうも自分は対人関係の構築能力に欠陥があるらしいということは幼い頃から延々と感じていたんだけど、最近になってようやく向き合う覚悟ができたので、論理でかっさばいて納得できるところまで落とし込んだ。 根っこの原因としては自己否定があって、自分で自分を充足していないために外からの攻撃を過剰に恐れ、他人に干渉していく心の余裕を持てずにいる点が大きい。そういう自己分析になった。

自己否定については最近緩和されてきて、わりと積極的に他人と関われるようにもなってきた。ただ、そうなったからといって自分の根っこにあるどろどろしたもの、苛烈なものを出せるかどうかというのは別問題で。でもそれこそが自分のような気もしていて。 そういう部分もひっくるめて話せるレベルに親しい人は未だにいないし、じゃあネットでといっても本垢でそれをやると社会的にまずいことになりかねない。

それから、自分をきちんと出すのであれば、それがもたらす結果も自分の目で見届けなければいけないと思う。そこから飛んで来る色んなものを受け止めて、踏み越えて、それでも俺の意見はこうであると言えて初めて意味がある。 書くだけ書いて目を塞ぐとか、遠慮して反応を取り繕ってくれる相手だけに投げるのであれば、手元のtxtファイルに書き出すのとそうは変わらない。

つまるところ、学びのある自己表現のためには、オープンにやって、自分自身の人格はボカスカ殴られつつも、自分を取り巻く現実への侵略は回避するようなバランスを取っていかないといけない。 本垢はもうこのバランスが取れないところまで露出してしまっているので、新しくアカウントを作るしかないなと思った。

本垢で本音を言わないのは結局逃げなんじゃないかというのが引っかかっていたけど、どうやらこれは別レイヤの問題で、単純にリアルが狭く、ネットが広すぎて、中間がないから適度なリスク管理が困難だという一点に尽きる。今はこれでいいと思う。

こういうそれこそチラシの裏に書くべき思考の流れも、とりあえず表に出していくようにしたい。