shigusa_t’s diary

当たり前の疑問を口に出せる人になりたい。

人間の経済性と生存の原則について

【やまもといちろう氏 特別寄稿】相模原の障害者19人刺殺は思想犯と言えるのか|みんなの介護ニュース
誰にも正義は押し付けられない:日経ビジネスオンライン

この事件については真剣に考えておかないといけないように思う。 容疑者個人よりも、彼が結果的に提示した思想が問題。「社会的に貢献できない個体は社会において死ぬべきか」という命題について。

誰しも明日交通事故に遭って全身麻痺に陥る可能性はゼロではない。そうなれば容疑者の思想でいうところの抹殺対象である。 誰にとってもこの事件は人ごとではないし、私たちは理路整然とこの思想を棄却できなければいけない。

人間の経済性

大きな問題は、この思想が経済的観点からは肯定されてしまうということだ。

現代の人間は単体では生きていけない。個人で完結して生存に必要となる活動を全てこなすことは現実的には不可能だ。であるから、私達は分業し、社会を形成する。 各々が適性を活かし、社会全体に必要な要素を部分的に生産し、それを流通させることで、我々は不自由ない社会生活を送ることができている。

このプロセスの効率化だけを近視眼的に追求したとき、生産しない個体が存在する必要はなくなる。集団に対して貢献をしていないのだから、切り捨てても本来の目的であるところの集団の生存には何ら影響がない。むしろ限りある資源をただ消費しているぶん、追い出したほうが「効率的」になる。

果たして障害者が「生産しない個体」であるかどうか、という議論はできるが、本質的ではない。経済性を基準にしている以上、生産力が比較劣位なだけでも社会から除外する理由になってしまうし、もし本当に生産しないといえる状況が成立した場合、除外が正当化されてしまう。

この思想を否定したいなら、経済の土俵で話を進めてはいけない。社会における残存可能性を人間の価値の軽重でジャッジすること自体が、劣るものを社会から除外する思想に直結してしまう。

踏み越えてはいけない生存の原則

なぜ我々がこのような思想を許容してはいけないかといえば、 それはひとえに、このような思想を否定すること自体が、人間社会の存続のための最後の砦であるからだと思う。

仮に、重度障害者を死という形で排除したとする。彼らが社会に存在するのは効率的でないからという論理で。彼らが生産するものより、彼らを支えるために消費するもののほうが多い。ならばいないほうがよい、という理由によって。

これを一度許してしまうと、歯止めが効かなくなる。

自然な拡張によって次に抹殺されるのは同様に働けない者、重病人や高齢者である。彼らもいないほうが経済上は合理的だ。消費超過の人間はいないほうが生産者の負担は減る。

その次は働かないものだ。これから先労働の効率化が進み、労働者の椅子が減り、働き口にあぶれる者が出てきたとする。もし経済合理性で人を抹殺できるなら、次のターゲットは彼らになる。結果的に生産できていないものは経済的には存在しなくてよい。

そのまた次は、能力的に比較劣位な人間だ。同じ時間で10の仕事ができる人間と5の仕事ができる人間がいたなら、10の仕事ができる人間を残したほうが効率的である。劣った方は殺してしまえばいい。

むろん、人類がよほど愚かでないかぎりは、ここに行き着くまでにその無為さに気づくことだろう。社会が効率的になる一方で、常に能力で周囲をマウントし続けないかぎり安心して生存できない社会。そこにたどり着く前に、そんなものをありがたがる必要はないと悟れるはずだ。

しかし、それに気づくまでにどこまで行ってしまうか、その過程でどれだけの命が失われるかは不透明だ。一時でもヒトラー思想のようなものが一国を席巻しうるのだから、何かの拍子に行き着くところまで行ってしまうかもしれない。

そうさせないために引くべきラインは、「人間であるかどうか」でしかあり得ない。人間であるのなら、その能力如何によらず尊重され、生存のために手をつくされるべきだ。

その先には闇が広がっている。「能力」や「知性」のようなもので線を引いた日には、誰もがそれらを失う日に怯えながら生きていくことを強いられるようになる。

 

すでに我々は動物に対しては経済的合理性に基づく殺害を許容してしまっている。 家畜の生と死は経済に組み込まれている。牛や豚が生かされて殺されるのは、穀物をより高価値な肉へと変換するためのプロセスだ。愛情を注ぐために存在するペットでさえ、飼い主に見捨てられれば殺処分の未来が待っている。

容疑者は、障害者を「人間としてではなく、動物として生活を過している」と評したらしい。どの程度考えてこのように記したのかは知らないが、結果として意味のある発言になっている。もし障害者を動物とみなしてしまえば、現状の社会通念上、彼の理論は通ってしまうのだ。であるから、この論理は強く否定しなくてはいけない。どのような特徴を持とうと、人間として生まれたものは人間であり、動物へと貶める権利は誰にもない。

私達の社会において、私達の生存の権利は、私達が生を受けてからどのように変容しても恒常的に維持されるべきものだ。人間として生まれたものは、無条件に生きる権利を持つ。この前提を違えた瞬間に、社会は誰もが誰もに対して闘争を仕掛ける世界へと収束していく。隙を見せれば殺される、常に強くあらねばならない世界に漸近していき、社会が解体されてしまう。

 

今回のような事件が生じ、そのフォロワーとおぼしき人々が出現しているのを見るにつけ、こうした前提を確認していく必要性を感じる。

十分に考えぬいたうえで、あえてラインを踏み越えて経済性を追求しているのであれば、個人として同意はできないが、ひとつの思想として把握はできる。高齢化や資源の有限性を鑑みて、さもなければ共倒れだという予想も可能ではあるからだ。 しかし、そうした過程を飛ばして、経済的合理性という使い慣れた道具で人間を処理することに違和を感じない人々が一定数いることは、非常に危ういことであると思う。

また、逆に脊髄反射で短絡的に容疑者的思想を弾劾するのも問題である。上記のような経済性重視の考え方が存在することを知った上で、断固としてそれを否定できない限り、結果として彼の求める社会が実現してしまうかもしれないからだ。

否定するにせよ同調するにせよ、目先の感情に囚われて今回の事件に反応するに留まり、その思想が導きうる結末を慮っていないなら、どうか一度時間を取って自分のスタンスを確認してみてほしい。

時間の空きを見つけては発達障害関係のテキストを読み漁っている。 恐らくそういう傾向があるという程度のことはこの場でも以前に書いた気がするけど、調べれば調べるほど傾向も何もど真ん中大当たりなのではといった様相。

自分の歪みの方向性が自己矯正的に機能していたがために今まではやり過ごせていただけなのだ。 そろそろ根本的な理解と受容と、それを踏まえた自分というものの取り回し方の見直しが求められている気がする。

発達障害というワードに辿り着いたのは3年ほど前で、それ以前にもアダルトチルドレンがどうとかパーソナリティ障害がどうとか、生きづらさの原因を外部の何かに求めて調べ回ってはいた。

一方で、この種のラベルを大々的に表明してアイデンティティのように扱う人々には抵抗を感じていた。レッテルによる自己規定は単なる思考停止であり逃げじゃないか。それに、そんな属性を外部に表明してしまったら、最初から社会において偏見で割り引かれることになる。それは自らの到達可能性を狭めてしまうし、何をするにも相手の配慮を求めるような、甘えた生き方に堕することに他ならない。そう思っていた。そう思っているのだと思っていた。

しかし、本当のところは、単に自身が抱える不具性を受け入れることを恐怖していたのかもしれない。 なんといっても障害である。私は障害者である。凄い響きだ。たった一言でいままで自分がすがりついてきた「真っ当な人間」のラインから滑り落ちることができる。

冷静に振り返れば、もう随分とデータは蓄積されている。 生まれてからこの方、二十数年にわたって続けてきた「普通であること」を目指した試行錯誤に芳しい戦果が一つもないのはなぜなのか。 ある人の日常のしぐさやテキストに流れる風合いから、「こちら側」と「あちら側」、その両極への近接度合い、そうしたものを敏感に嗅ぎ分けて、その上で「こちら側」の人の思索にシンパシーを感じる自分がいる。こういう決定的な傾向にも、早い段階で気づいていたはずだ。

そこまで分かっていて、何故自己変容に望みを繋ぐのか。今後どうあがいたところで「あちら側」に行くことはできない。そういう結論に、もっと早く達することができたのではないか。

 

何はともあれ、人間は怖いし、社会は馴染みづらいし、人生はおしなべて苦しいのである。嘘偽りない本音である。認めよう。

そして、この種の精神傾向というのは、社会生活を送る上での紛れも無い障害であり、それを自分は抱えているのである。認めよう。

 

社会生活を無難に送っていくために上っ面に被せたものと、本当に自身が感じていること、求めているものは区別しなくてはいけない。

自身の不具を認めたからといって、それを広く表明するかは別問題だ。それは、少なくとも現状の日本社会においては、アイデンティティを定めるという主旨を逸脱した意味を持つ。自身の社会生活上の利益、具体的には職を得て維持する上でのあれこれと突き合わせて判断する必要がある。

逆に言えば、職のレイヤから切り離したこの場において、自身の精神傾向を隠す必要はない。隠したいと感じるのであれば、それは社会生活のための合理的判断などではあり得ない。自己と理想の落差を認識したくない、ないし他者に知られたくないと願う保身にすぎない。

そうした保身の気持ちが、今少なからず自分の裡に堆積している。この楔を引き抜けば少なくとも自己同一性の獲得の方向には一歩前進するだろう。その一方で何かが崩れ去る可能性は否定できないが。

似たような話をこのブログの1記事目にも書いていた。随分と言い訳が多いが、問題意識はやはり自己の確認と受容の周辺にあったらしい。

これからまた長い期間をかけて、同じようなところをぐるぐると回りながら自己受容を進めていくことになるのだろう。前に進んでいるのかどうかも定かではないけれど、やはり自分にできるのは悩み試行錯誤することだけだ。そういう自己の有り様を確認できただけでも、一周してきた意義はあったと思いたい。

抜け殻と蛇

インターネットにおける自分を動物に例えるならトカゲや蛇だろうなと思う。 ネットの世界に片足を踏み入れてから、いくつもの匿名のアカウントを作っては熱中し、どこかで糸が切れたかのように執着を失って切り捨ててきた。トカゲがしっぽを切るように。蛇が皮を脱ぎ捨てるように。

そのアカウントでの活動に嫌気が差したり疲れを覚えたわけではなく、一時の多忙さや他の熱中対象にかまけてやむを得ずしばらく視界から外したケースがほとんどだけれど、時間ができたからといって戻ってこれるケースは少ない。期間が空くと、その場で行った活動のすべてが、なにか取るに足らないものであったり、見るに耐えないものであったような気がしてくるのだ。蓋を開けたくなくなる。過去の自分が出力した醜いものを、そこに封じ込めておきたくなる。

「気がしてくる」という表現しかできない。事実、自ら封印したはずの過去の作品を掘り起こすと、確かに未熟でこそあれ、思ったほど悪くも見えなかったり、むしろ面白いと感じることすらある。そうした経験を繰り返すと、開けたくない蓋が生まれた時に思考の偏りに対する疑義が頭の隅に浮かびはする。しかし、それが上回ることはない。発作的自己嫌悪のようなものだと分かっていても、「開けたくない」と強く感じる。

インターネットに限った話ではない。人生の至る所で、あわよくば過去を脱ぎ捨てようとしてきた。同年代を見渡して、なぜみんなあれほどにも語るべき対象を持ち合わせているのかと感心していたけれど、当たり前だ。自分はそれを身に付ける機会を持ちながら、自ら脱ぎ捨てることを選びとってきたのだから。

アイデンティティ。日本語にして自己同一性と書くと、これを固めるためにどうすればいいかは読んで字の通りであるとわかる。自らに生じた属性を自己に取り込んで、変えることなく保持すればいい。ただ受容し、自覚し、守りぬけばいいだけだ。

一体何から逃げているのか。至らない自己を突きつけられて、それを受容することを迫られるのが怖いのだろうか。私はまだ成長できる、ここで固めるのは得策ではないと信じているのだろうか。単に、瞬間的に生じうる痛みを恐れているのだろうか。 どれも正しい気がする。その程度のことから逃げ続けているのかもしれない。

 

最後の更新から5ヶ月ほど空いたけれど、この間、このブログで書き散らした思考が明らかに自分の一部を構成していることを自覚する機会は多かった。何かの拍子にするりと、ここで見出した結論が前提事項として思考の土台に組み込まれる。口からこぼれ出る。自分の中で無意識に、比較的たしかなものとして信頼されているらしい。自分にとって比較的たしかなテキストというプラットフォームで、当時の自分にとって振るえる限りの知恵を振るって得た知見なのだから、当然のことなのかもしれない。

裏返してみて、そのような営みをせずに過ごしているここのところの日々は、自分にとってどの程度血肉になっているのだろうか。もしかすると、忘却という脱皮で日々脱ぎ捨てられる程度の厚みしか得ていないのではないだろうか。そうやって漫然と日々を過ごした先に、何があるのだろうか。点々と脱ぎ捨てられた皮の連なり。古いものは風化してもはや形を留めていない。ふと自らを顧みれば、数年前といかほども変わらないやせ細った体。

これまで、自分にとっての売り物はあくまでアウトプットであると考えてきた。自己というのは、アウトプットのための至らないインタフェースでしかなかった。ネットの世界が生きやすかったのは、「誰が」よりも「何を」が重視される、顔のない存在同士が顔のないままに生きていける場がそこかしこに散在していたからだ。 しかし、顔のない世界で許容されうるある種の振る舞いは、生身の人間が回す身体性の世界には相容れない。あなたはどのような人間なのか。あなたはどのように考えるのか。あなたは。主語は常に作品ではなく人であり、あらゆるアウトプットは人と紐付けて消化される。

人間は本来人間に興味を持つものだろうから、これは自然なことなのだろう。例えば映像作品に感銘を受ければ、まず作者や出演者の名前を調べ、その人間が関わる作品をリストアップして摂取し、果てはその人間のスキャンダル報道に一喜一憂したりする。 振り返ってみれば自分にはこの種の経験がほとんどない。感銘を受けた作品の作者から別の作品へと辿っていくことはあるが、それはあくまで質のいい作品の作者は他にも良質な作品を書いている可能性が高いだろう、という程度の、どちらかと言えば探索効率を上げるための単純な方法論に過ぎない。自分にとって、ある作者のファンであるということは、その作者が生み出す作品に惚れているということだ。作者の顔を拝みたいわけではない。作者のプライベートを掘り下げる行為に至っては忌避感すらある。

創作作品の作者と向き合うことを抑制する心の動きは、今になって思えば自分の過去の言行を封じ込めた箱を目の前にした時によく似た、「開けたくない」という気持ちによく似ている。これは不思議な一致だが、ある共通項で結べば違和感なく繋がる。 つまるところ、自分に対しても、他人に対しても、「生身の人間を消費する」という行為そのものを忌避しているのだと思う。

創作には、公開に関する裁量が付随する。公開したければすればいいし、しなければ誰に伝わることもない。であるからして、他人の公開手記を読むことには何ら抵抗はない。そこには本当に書きたくないことは書かれていないはずだからだ。 しかし、生身の身体性、精神性に関しては、その場に物理的に存在することを選んだ瞬間に、避けようもなく公開するしかなくなる。強い部分も弱い部分も。弱きを取り繕う術を持たない弱者ほど、開陳したくない手札まで公開しなければならない。その有り様が、自分の目にはひどく暴力的に映る。

その暴力的にすら見える生身のレイヤで、ノーガードで拳を差し合うスリルの上に、ある種の社会は構築されている。そこで曲がりなりにも生存していくためには、もう皮を脱ぎ捨てている余裕はないのかもしれない。着込めるものを着こみ、少しでも重みを増して、ぶつかり合いに負けないように。 何も難しいことはない。連続は同一性を導く。過去を脱ぎ捨てるのではなく着こむことを繰り返せば、自ずと法則性を見出すに足るデータ数が揃い、自己が規定される。それを認識すれば、自己は追認されさらに強化される。それだけでいい。恐らく自分は、そうであるからこそそれを望まなかった。 一貫性からすらも自由でありたいというのは、無名の世界でのみかろうじて許容される願望なのだろう。

#四発しか入っていない銃で五人以上殺すにはどうすればいいですか

表題のタグでの大喜利のようなものがTwitterで流行っていて、ふと興味を持ってハッシュタグからいろいろな人の解答を辿っていた。
シンプルなようでいて、解答者のセンスが如実に出る設問だと思う。
ちょっと思うところあって、この問題に対する様々なTwitterユーザの回答をざっくり分けて、個人的に面白いと感じた度合で並べて整理してみた。

先に書いてしまうけど、自分は面白くない方に分類してる平凡な答えしか思いつかなかった。
別に読者の人に問いたいわけではないけど、一応隙間を開けておくので、未見の人は一度解答を考えてもらってもいいかも。
後半で紹介したような答えとか、ここで触れてもいないような解答をひねり出せる人は凄いと思う。



















前提事項

まず前提としてこの問題は、使う道具が銃であること、4発しか弾がなく単純には5人殺せない状況を前提として、 いかに独特なアイデアや面白いブラックジョークに飛躍するかという点を期待した問いになっていると思う。
なので、そういう問題設定を理解してない答えは問題外だと思われる。以下のようなもの。

  • 銃を活用せずに殺している、または5人殺してない
  • これも銃のうちだからなどと言って散弾銃や対戦車ライフルを持ち出す
  • 「弾の予備がないとは言ってない」「銃が一丁とは言ってない」系の前提改変

このあたりは問題に対する解答として不適切だと思う。これはもともと就職面接の設問らしいけど、この手の解答は減点になりそう。
とはいえ、面白かったり説得力が出ていればいくらはみ出したとしても許容される気がする。
ただハッシュタグを見ている感じ、問題設定を無視してしまっている人のほとんどはなんとも言えない解答だった。

解答タイプ別の個人的感想

平凡

たぶん大抵の人が思いつくが「これじゃ何にも面白くないよな」と思うであろう解答。
ハッシュタグ中の割合としては、実に8割近くがこのどれかか、前述した問題外の回答に当てはまった。

  • 銃で殴る
    ざっと見た感じではこれが一番多かった。銃である意味が全くない。

  • 貫通させる
    これが可能ならそもそも4発で5人という設定の意味がない。
    普通にやったら4人しか殺せないのが問題のキモなので、当然二枚抜きはできないものと考えるべき。

  • 爆発物を撃って爆発させる、構造物を撃って倒壊させる、乗り物や運転手を撃つなど
    取ってつけたような都合のいい状況、ないし限定的な状況を想定している。
    銃の使い方というより状況の力に頼ったものになってしまっている。面白味もなくいただけない。

  • 銃声でショック死しうる人や病人などを選ぶ
    これも限定的過ぎて少々苦しい印象。

少しマシ

上よりは良い気がする。自分が少し頭をひねった程度で出てくるのはこのあたりが限界だった。

  • 暴発させる
    単発の銃弾だと一人しか殺せないとしても、銃ごと爆発させれば複数人巻き込める。
    撃つ以外に銃の特性を使うのは方向性的には悪くなさそうだけどインパクトに欠ける。

  • 着剣して刺す
    銃は撃つものという固定観念からの離脱。銃と言ったら銃剣突撃ですよね、みたいなネタ。 「殴る」よりは筋が通っている気がする。軍クラスタの人たち。

  • 妊婦を撃つ
    結果的に1発につき2人以上死ぬことになる。たぶん想定解のひとつだと思われる。
    結構多かった。ミステリの類を読んでいれば珍しくもない発想。最近は似たネタの作品のアニメ化もあったようだし。

  • 人を脅して誰かを殺さざるを得ない状況に追い込む
    3人撃って残りの2人に殺し合いをさせて生き残った方を結局撃つなど。これも恐らく想定解。 脅し方の部分を綺麗に表現できればわりとセンス良く見えるかも。

面白い

全体の割合はごくわずか。ここから先をぱっと思いつく人は凄いと思う。

模範解答だと思う。同じ解答をしている人も結構いたけどこの人の言い方が上手い。 5人目は自分という意外性を上手く出せるとそれだけで非常にセンスを感じる。

上記の変形。これも良い。

  • ○○を撃てば○○が後追い自殺する
    数は少ないけどいろいろパターンがあった。丸の埋め方によっては面白い。

  • 名医を撃つ
    発想の転換。結果的に助かるはずだった人たちが死なざるを得なくなる。

秀逸

個人的な優勝はこれ。この解答は問題作成者も想定外だったのでは。
数発の銃弾が大惨事を招いた象徴的な時事とぴったりマッチさせている。たった11文字の中に詰まった巨大なスケールの文脈が美しい。

その他ユニークなもの

その他、以下の解答は独創的で面白いと思った。多くは他の人とは被ってないオリジナルな発想。
人と違うことを言ったもん勝ちな問題だと思うので、このあたりは問いに対する解答例としては優れてると見ていい気がする。

こちらは日本史のほう。やはりセンスを感じる。

神話まで遡ってもよい。

エンジニアネタ。確かに死にかねない。

共産圏ネタ。必ず5人以上が死ぬだろう。

0.5人がたくさん。

弾の積極的調達という発想にたどり着いてる人はほぼ皆無だった。

哲学的。

総評

なんだか血なまぐさいエントリになってしまったけど、問題内容そのものに興味があるわけではない。
ある発言にユーモアやジョーク、あるいはそこはかとないセンスの良さを感じるとき、それはどういう要素から生まれてくるんだろうかと考えながらこのタグを辿ってた。
まともにやるとかなり解答が限定される問題になってるので、どうひねったときに面白味が生まれているのかの分析の足掛かりにならないかなという。

気づいたこと

  • 人間みんなそんなに面白いわけじゃない
    かなり平凡な解答が全体の大部分を占めてることがよく分かった。
    これが一番意外ではあった。ほんとにみんな殴る殴る言ってる。
    どうやら自分だけユーモア欠落症候群なわけではないらしい。思いつかないよねこんなの。

  • 言葉の多義性に目をつけるのが重要
    「銃で殺す」を「銃に起因する何かで結果的に死に至らしめる」と解釈できるかどうかが第一歩になっているように見える。
    言葉を額面通り受け取るのではなくて、多義的に解釈できる中で可能な限り辺鄙な方に振っていくのが重要そう。

  • 「まず前提と定義を詳しく教えろ」はこの手の話題では禁句
    問題解決スイッチを入れてはいけない。それは求められてない。
    「定義が分からないからなんとも言えないけど」みたいなエクスキューズも興ざめなだけなのでやめたほうがよさそう。

  • 同じことを言っていても簡潔さと言葉選びで印象が全く異なる
    サラエボ事件盧溝橋事件に触れているツイートもいくつか見つけたけど、だらだら書いているものは全く感銘を受けなかった。
    短く簡潔にリズム良くまとめるだけで受ける印象が全然違う。複数行になったら大抵面白くない。
    喋るときに噛んだり恥ずかしがったら台無しになるのと似たようなものかもしれない。

  • 間接的なアプローチにこそセンスを感じる
    風が吹いたらなぜか桶屋が儲かってしまうような、間接的影響を描けているものは意外性も相まってセンスを感じる傾向にある。
    読み手が行間を頭の中で埋めることができて、わかったぞ!と悦に浸れるようなものが面白がられる気がする。
    「4人を殺せば自分も死刑になるから死ぬのは5人です」じゃなくて、「4人殺して自首する。たぶん死刑になる」の方がよい。
    あえて直接的に書かないために、なぜ5人を達成しているかを読み手が導き出すからこれは凄い、となる。

  • ハイコンテキストさと対象範囲のトレードオフ
    ハイコンテキストなものほど面白く感じやすいけど、ハイコンテキストであるほど対象層が狭まる。
    第一次世界大戦の経緯を知らない人にはサラエボで皇太子を撃ってなぜ5人以上死ぬのか分からないが、分かる人はニヤニヤしてしまう。
    一般に広く通用するようなジョークを考えるなら、大多数の人々に共通した知識や原体験を把握してよく吟味しなくてはいけないんだと思う。

他人の舵に触れてはいけない

自分が好きなのはものごとにきちんと向き合って悩んでいける人で、言いかえれば自分の頭でものごとを考えていける人だ。
そうした人々に相対する場合に限って言うなら、「誰かのために」行うアドバイスなんてのは誰のためにもならないのだな、と思うようになった。
彼らの舵は彼らが握っている。彼らには志向する針路があって、そのために自らの責任の下に一つの船を引き受けている。

舵取りというのは基本的には中長期の予測に基づいて行うものだと思う。とはいえ、非決定的な世界の流れを前もって完全に把握することはできないので、各々が持つ情報、知識、勘、その他いろいろによってあいまいに先のことを妄想していくことになる。
そうであったとしても、全く無思考でいるよりは情報を得て論理を組んで先を見た方が比較的予測精度は上向かせることができる。そういう前提のもとに、みんな様々なスパンで未来のことを考えている。老後の生活から明日の天気まで。それに基づいて、舵を取る。老後に貧窮するよりは貯金したほうがいいとか、明日ずぶぬれになるよりは傘を持って行った方がいいとか。

 

われわれは種の限界として他人の頭の中を読めないようにできている。この限界のもとで、われわれは他者の舵取りの意味をどれだけ理解することができるだろうか。大きな決断であるほど、その人に内在する様々なものが意識的・無意識的に絡んでくる。
小さな短期的決断であれば察することは難しくない。傘を持つのは天気予報を見たからだろう。しかし、どれだけ貯蓄するかとか、どんな職種に就くかとか、どういう人間関係を持つかとか。大規模な決断になると、他人が外から推し量ることは困難だ。たとえその意図を口頭で聞いたとしても、それがどれだけ本質に近づいているかはわからない。その人が嘘をついているというわけではなくて、本人も意識せずに決断に影響している要素がありうるから。

もし自分の価値観からして良くないように見える決断をしている人がいたとしても、その決断を誤りだと断じることはできない。予測が予測でしかない以上、どんな決断にも良い方向に転がる可能性は残る。
そして、自分が相対する彼は、その可能性に賭けざるを得ない何かを抱えているかもしれない。あるいは、何か自分には想像もつかない材料を抱えていて、より妥当に先を見通して舵取りしている可能性もある。
自分が頭を回す時間と同じだけ彼らも頭を回してきたわけだし、自分が過ごしてきた時間と同じだけ彼らは独自の蓄積を持っている。その背景をまるごと引き受けるなんて、到底できはしない。ここはきっと、傲慢になってはいけないところだ。

そもそも、正しい予測に基づいて正しい決断をして、だからどうなのだという話もある。
もし他者の助言を受けて、その通りに動いて良い方向に転がったとして、どうだろうか。よかったよかった、アドバイザーに感謝しよう。そうなるだろうか。
当人が自らの決断としてその人の意見を得たなら、そういう結論にはなるかもしれない。しかし、意図せずアドバイザーから押し付けられた場合はきっとそうはならない。成功しようがするまいが、何かもやもやしたものを残していきそうな気がする。その成功が人生の節目になったとして、自らを誇ることも恐らくできない。

 

結局のところ、こうしたタイプの人々に関して言えば、決断の結果の良しあしに先立って、自ら決断することそのものに意味がある。
選んで打ち込んで返ってきたものを受け止めるまでが1サイクルになる。期待外れの結果が返ってくることよりも、サイクルのどこかが欠けることの方が苦痛になる。このサイクルは端的に、自分の人生が自分のものであることを再確認するために絶え間なく摂取されるべきものであるから。

他人の舵には触れてはいけないんだな、と思った。
もちろん舵取り以外のレベルで様々な相互作用はあるし、それが結果として舵取りに影響してしまうことはあるだろう。それは問題ない。要は当人が自分で舵を取っている感覚、自己効力感があるかどうかが問題であるような気がする。

この舵の扱いは、社会全体で暗に共有されている文脈の一部分をなしているように思える。「自分は変えられるが他人は変えられない、変えようとするべきでない」というのもそうだし、他者を尊重しようとか自分の頭で考えようというのもそう。だいたい舵で説明できる。

例外は親子関係、ないし子供が社会と取り結ぶ関係で、これは精神的社会的に舵取りができる段階にない人間をサポートするためのものだ。子供の舵取りを周囲が代行する。成熟に従って徐々に舵を子供に任せていく。
「俺はお前の親じゃない」というセリフは「その歳なら舵取りレベルの決断は自分でしろ」ということだろうし、最近よく取り沙汰される「毒親」は例外的に他人の舵をコントロールできる特権に酔って、いつまでも舵を子供に返したがらない大人を指すのだと思う。

 

こういうことを踏まえた上で、(実話ではなくてあくまで思考実験として)例えば友人が新興宗教にはまっている場合はどうすればいいんだろう。これも個人の舵取りを尊重して干渉しない方がいいんだろうか。どうも、そうは思えない。
しかし、新興宗教を妄信して結果的に幸せに生きられるケースもあるだろうし、立派な企業に就職して過労死するケースもありえる。外面だけでは何が当人の利になる決断なのかはわからないし、かといっていくら聞き取っても実情を理解しきることができないのは上で書いた通り。

せいぜい自分にできるのは、「一緒になって悩む」ことなのかな、という気がする。
なんにせよ舵取りは当人が行うべきことで、一人の独立した人格を想定するなら、決してそこに踏み入ってはいけない。
どうしても他人の決断に違和感を覚えるなら、可能な限り情報を得て、当人とは異なる個人としてよく悩んで、個人の意見として思うところをどこかで表明した上で、そういう材料としてその人の思考の隅に置いてもらうのが限界だろう。
これですら自分の思考の方が妥当だという傲慢さを含んでいる気がするけど、このラインを切り捨てると本当に何もできなくなってしまう。世の中の人はどういう割り切り方をしているんだろうか。

親や社会の庇護から切り離された個人としての大人は、ひたすら自己の判断で決断を繰り返して舵取りしていくことを強いられる孤独な船頭と化すのだろう。
表面的にうたわれる綺麗な絆のようなものはどこにもなくて、微分していけば必ずどこかに決定的な断絶がある。

ここまで書いていてようやくこの記事を思い出した。

生きるつらさに向き合うということ - Letter from Kyoto

「ただの走り書き」とは書いているけど、たぶん自分の脳裏には材料として川添さんの記事が刻まれていて、多かれ少なかれこの記事の着想とか、この記事を書くという決断には影響している。そして、こういう考え方を持つことによって今後行っていく決断にも間接的に影響していくのだと思う。
われわれの間にはそういうレベルのぼやけた相互作用しかないのだなと。ただ、そういうレベルであれば相互作用は確かにあって、それこそを大切にしていくべきなのかもしれない。

虚構とプライドについて

田村ゆかりという女性声優が凄いらしいという話は常々聞いてたんだけど、最近改めて動画を見たりラジオを聴いたりしてみた。
こういう人は嫌いじゃないなあと思いつつ、ふと頭に浮かんだのがスケート選手の羽生結弦田村ゆかりが抱えている構図は羽生結弦が抱えるそれによく似ているような気がする。

虚構による自己拡張

羽生結弦田村ゆかりを見ていて思うのは、こう言うと語弊があるかもしれないが、ナルシストであること、つまり現実の自分より自分を美しいと信じることは、人々を惹きつける上で必要なことなんだなということ。

人には一般に強いところもあれば弱いところもあり、程度の差はあれ強味と弱味を考慮した相応の自己の大きさを周囲に表明していることが多いと思う。Aという分野は得意だからその得意さをすこし誇張してでも表明し、Bという分野は苦手だから一歩引いた位置に構える。レーダーチャートを考えると、面積としては強い軸と弱い軸の平均を取った多角形と同じぐらいになるイメージ。

一方の彼ら彼女らは、一つの強みがずば抜けていて、かつそのずば抜けた強みの高さのぎりぎりいっぱいまで自己を拡張して生きている。
弱みを含めて平均するのではなくて、弱みは見せず、一番高い強みに無理やりにでも他を合わせていく。レーダーチャートで飛び抜けた一つの頂点に合わせて周囲を引き上げた体積を志向する。

実際の彼ら彼女らにはいくつか弱いところがあって、外に見せるためにつくりあげたところまでの完成度は実質として持っていない。だけど、彼らは弱みを捨象して拡張した自己を表明し、自らそれに見合う立ち居振る舞いをすることで、ある領域での自らの立ち位置をそこまで高めている。

そして、王子様やお姫様を求める人達にとっては、それが現実であろうと虚構であろうと大した問題ではなくて、それを信ずるに足る強度、説得力だけがあればそれでいい。それはスケートの才能による説得力かもしれないし、声の美しさによる説得力かもしれない。物語を作り、説得力にものを言わせて自身に同化させることで高みへと登り、人々にその物語を楽しんでもらうのが彼らの仕事である。

虚構を抱えるのはよいことか

この方法論はどう評価するべきだろうか。
つまり、自身の実情を上回る虚構を身に纏い、その一部だけでも貫き通す力を頼って説得力を持たせ、自己体積を増大させることの是非はどうか。

一概に悪いことであるとは言えないのは見てわかる。実際彼らはあれだけ多数の人々を惹きつけて楽しませ、日々の活力となるようなエネルギーを与えている。そこで生み出されるエネルギーは、彼らが虚構を身に纏わなかった場合の比ではないだろう。

ぱっと思いつくのは、まず彼らの虚構を支える柱が折れた時の問題。
スケートができなくなった羽生結弦や、声を失った田村ゆかりがどうなるか。まず間違いなく彼らはそれまでの虚構を支えきれなくなる。彼らが身にまとった虚構は一本の大きな柱によって保持されているので、それを失えば倒壊するだけだ。
彼らはアイドルである以前にスケーターであり声優であって、実質はそこにある。彼らはまず第一にプロフェッショナルであり、その上に人柄や個性や各種の才能を載せて売り出している。それが無くなれば一般人に戻ることになる。残りの才能だけでは表舞台にはいられない。

芸能活動的側面から見れば引退することになるんだろうけど、その後の彼らの実生活はどうなるだろう。膨らんだ自己を一気に収縮させた生き方をすぐに見つけられるのだろうか。
彼らのやっていることはそんじゃそこらの芸人のキャラ作りとはわけが違い、着て脱いでを容易に行えるものでは到底ない。あれは自己を溶かして膨らませて不可逆に固めたような何かであって、弱みを持つ本来の自己との境界は、もはや切り離せない程度に曖昧になっている気がする。
彼らがそうするのは、そこまで持っていかないととても貫き通せないからだ。少なくとも外部からまなざされている範囲は全て取り繕う必要があるので、演じるというより常にONの状態にすること、すなわち一体化が必要になってくる。
これを崩すということは自我の崩壊と再構成を要求することで、並大抵の作業ではない。あくまで仮面として分離した形で捌き切れているならいいが、そうでなければ巻き添えを食って崩れた自我と共に、ゼロからの自分探しを行わなくてはいけなくなる。少なくとも、そういうリスクがある。

一方そのリスクを踏まえて、虚構を貫き通せる期間に限定して彼らの戦略について考えてみると、これは彼らとその近しい人々、および彼らのファンにとっては完全なプラスになる。
彼らは自己を拡張したほうが多くの仕事を貰えるし、気分だってよい。また、彼らが魅力的であれば、近しい人々もファンも嬉しいし楽しめる。
だからゆかりはお姫様であり17歳であってよいのである。その虚構を守り抜く覚悟と能力だけあれば、彼女も彼女の大切な人たちも幸せでいられる。

この虚構を支えぬく覚悟と能力をひっくるめて、プライドと呼ぶのではないだろうか。
謙虚であることは美徳とされがちだが、彼らがもし等身大まで自己を縮小すれば、減った嵩の分だけ彼らのファンが受け取るものも減ってしまう。
一方、嵩を広げれば広げるほど弱い自分からの差分が重くのしかかり、見せ方の工夫であったり差分を埋めるための研鑽であったり、多種多様な努力が必要になる。

謙虚であることと自己を過大評価すること。この二つは、きちんと演じ通すという条件をつければ後者の方が遥かに困難な道であり、また彼らが魅力を振りまくアイドルという役割をもつ限りにおいて、後者はより多くの人のためになる善行であるともいえる。

一般人と虚構のあり方

翻って、我々一般人はどうするべきか。彼らほど突き抜けていなくても、どこかアンバランスに尖っている部分は各々多少はあるはずで、それを使って自己を拡張するかどうかというオプションは我々にも存在する。なんなら軸になる尖った部分がなくても見せ方で見栄を張って広げることも一応はできる。
誰のために、何のために、どの程度の虚構を組み上げて、何によって支えていくべきか。それを貫き通す覚悟はあるか。

こんなことをいちいち意識しなくても、ある程度虚構を構築している人は多いような気がする。ファンのためにという動機がなくても、自分が美しいと自分の気分が良いというだけで虚構を被る動機にはなりうる。そして、それ自体はアイドルが身にまとう虚構と同様に、決してマイナスにはならない。

問題になるのは、虚構を守り抜くために他人を攻撃し始めた場合だろう。
芸能の世界はそれぞれが輝けるようなステージが用意されているが、現実に我々が生きる世界はそうはなっていなくて、誰かが輝けば誰かが日陰に落ちることになりがちだ。
こうなると、各々が拡張した自己の中に「主役たること」が含まれていたり、各々の虚構が相容れない形で交差したとき、それぞれ自らのプライドを守り抜くために血みどろの闘争を始めることになる。

そうした姿を見てしまうと、ああ傲慢になんてなるもんじゃないなと思ってしまうのだけど、しかし前述したようにプライドを持つこと自体は決して悪いことではないのである。
自身にとって、自身の所属する組織にとって、自身の友人や家族にとって、自身が魅力的であろうとすることはプラスに働くので、他人とぶつからない範囲で、かつ自分が背負いきれる範囲で、虚構は背負っていった方がいいのかもしれない。

どうも自分はそういう自己を大きく見せて云々というのに過剰な嫌悪感があるんだけど、この直観はあまり合理的じゃないなと色々考えてみて実感した。自己縮小で得られるのはナルシストと罵られないための予防線ぐらいしかなさそうだ。
弱く小さく引っ込めるよりは、利害が交錯しないような方向を選んで広げていくことを考えていくべきなのかもしれない。頭で分かっていてもなかなかできることではないけれど。
虚構に対して意地を張り切れるというのも、また一つの才能なのだろうなと思う。