読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

shigusa_t’s diary

当たり前の疑問を口に出せる人になりたい。

年末だし今年読んで面白かったブログの棚卸しでも。と思ってたんだけどやめた。
何かジャンルを絞ってその道を突っ走ってるブログを紹介するならいいんだけど、今自分が購読してるブログはジャンル不定の雑記系ブログ、特にその人が日々考えてることをそのままアウトプットしたようなものが結構多い。
これを評論してしまうとブロガーさんの人格の品評会のような感じになりそうで、それはさすがによろしくない気がする。
基本的にはベタ褒めになるんだろうけど、それでも。心の中にとどめておくことにする。

 

最近たまにテレビを見ていると、外国人を引っ張ってきて日本の良い所を褒め称えさせる番組がよく放送されている。
あれは作り手が受け手としての中高年層のことをよく観察して、「こうすればいい気分になってくれる」「こうすれば喜んでくれる」という意図のもとに練り上げられた奉仕としての表現だ。
いわゆる職業ブロガーの人が書く記事もそういう要素がある。「こうすればGoogleに持ち上げてもらえる」とか「こうすればSNSでシェアしてもらえる」とか、なにか意図を持って書いている。
それらはいずれも、程度の差はあれ大勢の人の注目を集めることが目的で、最終的には金銭的利益につながっていく。

そういう目的を掲げれば、自ずとやることは決まってくる。
そういう番組がウケるとわかればそういう要素を突っ込んだ番組を作ればいいし、そういうブログが稼げてるならそういう施策をすればいい。
もっともマスである層を効率よく惹きつける方法のバリエーションなんてたかが知れているので、みんな似たような方向に走っていくことになる。

社会を回していくのはそういう営みなので、どこを見てもその手の合理的な集客法は転がっている。90人の賞賛を取って10人の軽蔑を切り捨てる。それを繰り返して作られた理想上の平均人に対してマーケティングする。削り落とすべき10%のご機嫌を取っても食っていけない。
結果として大勢を賛美して気持ちよくさせるキャバクラコンテンツや、誰もが抱く悩みに蜘蛛の糸をぶらさげる釣り堀コンテンツが生まれることになる。

 

これは利益を出すためには当然のことだし理解はできる。だけど、そういうものを見ても作っても何も面白くないというか。もういい加減嫌になってしまった。
マスに刺しつつきちんと中身を両立させる職人芸をやってる人は尊敬するけど、無難に受け手を気持ちよくさせることを突き詰めたコンテンツの物量に勝てていない感じがあって切なくなる。

翻ってブログやTwitterを見ていると、それはどう見ても90%には刺さらないだろ、というような、しかし熱量のあるテキストを発信している人たちがいる。
彼らは別に利益を追い求める必要がないので、9割にそっぽを向かれようが特に問題はない。
だから好き勝手に、あるいは深く考えず、生まれてくる言葉をそのままに書き出している。それがものすごく魅力的に見える。
彼らのテキストは、少なくとも利益のために恣意的に紡がれたものではない。それだけで尊くすら見えてくる。

そうした中に、90%に届けるテクニックを身につけて、より高いステージを目指して突き進んでいく人たちがいる。
彼らは高らかに「ブログで稼ぐ」と宣言して、広告を貼り、商品を紹介し、たまにその筆力を効率よく振るって人を集め、高みを目指していく。
その高みの先にあるものが何かと言えば、奉仕と欺瞞と意図と妥協と、それに結びついた利益である。
それは不可逆な枷となり、彼らが紡ぐテキストを変質させていくことだろう。

 

無制約な世界で振るわれる才気の発露を好ましく感じる自分の嗜好は、きっと贅沢に過ぎるのだろうなと思う。
元来そうしたものは、人生における有限のモラトリアムでのみ生じる刹那的な輝きなのかもしれない。

振り返れば自分が興味を持つのは、同人界隈、技術界隈、学術界隈、2ch界隈やブロゴスフィアなど、いずれも利益構造に縛られることなく比較的自由に思考を走らせることができる場だった。
自分はそういう場に惹かれていて、しかしそれは容易に見失いがちなもので、また非可逆に喪失しうるものだという気付きを記して、2015年の筆を置きたい。