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shigusa_t’s diary

当たり前の疑問を口に出せる人になりたい。

なぜ数学が必要か―数年前の自分に宛てて―

数年前の自分は少なくとも周囲の人々と比べて数学というものが苦手で、でもそれを使わないと事が前に進まずに悶々としていたんだけど、最近はいくらか慣れてきて心持ちも変わった。 (それでもまだ得意とはいえないが、必要最低限についていける程度にはなった)

どうしてあの人たちはあれほどまでに数学的にしか議論を受け入れてくれないのか、とか、それってほんとに生産性に繋がってるのか、とか。 そういう疑問が当時はあった。最近は、こうした問題にもある程度納得がいくようになってきた。

「数学語」の存在

われわれは日本語を日常的に用いて、相互にコミュニケーションをとっている。なにをもって日本語の実体とするかはともかく、ある程度相互に「日本語とはこういうものである」という認識を共有していて、その範囲内で言葉を紡ぎ、意思を確かめあう。

ところが、大学や、ある種の理系的な議論が要求される環境では、「数学語」で動いている人種が少なからず実在する。

主張に対して「根拠は何?」というのが彼らの口癖だし、こうだからです、と日本語で説明すると、なにやら思案したあと紙にエンピツでゴリゴリと数式を書き始め、「やっぱり違うかなあ」などと言い始める。 その書き殴られた数式の羅列を見てもなんのことやらさっぱり分からない。わかりませんと言うとこれはつまりこういうことで、とまた数式で証明を始める。日本人なら日本語を喋ってくれと言いたくなる。

どんなに日本語で言葉を尽くして説得しても、彼らは受け入れてくれない。頭のなかにどんなに冴えたアイデアを持っていても、伝えきる前に切り捨てられることもありうる。

しかも、こういう人は学問という領域においてかなりの多数派である。理系に分類される各種の学問は当然として、純文系的なごく一部の学問を除き、例えば経済学に代表される社会科学でも、医学看護学でも、下手をすると心理学や考古学の類でも、突き詰めていくとこの種の人に出会ってしまう。

端的に言うと、これこそが数学を学ばなければいけない理由である。彼らと話をするために数学が必要になる。

逆に言えば、自身の人生設計上、一定以上の学問の深みに踏み入らないつもりであれば、数学はいらない。高校数学の文系部分までの範囲でおおよそ事足りるように思う。

しかし、何かの拍子に踏み入らざるを得ないことも出てくる。仕事に突然統計が絡んできたり、専門性をもつクライアントから仕事を受ける羽目になったり。こうなると、誰かリテラシーのある相棒を見つけてくるか、忙しい合間をぬって必死で学ばないといけない。その場で対応できる人間の方がチャンスを掴みやすいことは言うまでもない。

おそらくそのあたりを知っている人が、「数学はやっておけ」とアドバイスするのだと思う。とはいえ、学習コストや頭の向き不向きを考慮したトレードオフの問題であって、数学を学ばない選択肢も尊重されるべきだ、というのは強調しておきたい。

彼らはなぜ数学語で喋るか

ではなぜ彼らがそんなに四角四面に数学を使いたがるかということだけど、ちゃんとした理由がある。(後述するように、それを意識している人としていない人の差はある)

軸となるのは、数学というものの一意性である。

数学は、世界を論理で完全に定義する。定義されていないものは純粋な数学の世界には存在しないし、その定義はひもといていけば誰にでも理解できる形で記されている。

人間の思考は多種多様で、全く同じ思考をする人は存在しない。

「べき乗とは、ある数字を、肩に乗った回数ぶんだけ掛けあわせたものである。例えば、2の2乗は2×2である。2の1乗は2である。2の0乗は1である。2の-1乗は1/2である。2の-2乗は1/(2×2)である...」

これだけの情報が与えられたとき、たとえば帰納的に3の2乗は3×3で9であるとは言えるだろう。では、0の0乗は?

なんとなく、直感的に導ける解はいくつもあるだろう。0を何回かけても0なのだから0だ、どんな数字も0乗すれば1なのだから1だ…… どれも直感的には間違っていないし、ある種の法則性を保っている点では正しい。じゃあどちらが正しいの、となると、直感的にはどちらも正しいような気がする、となる。曖昧なまま、グレーなままその議論は終了してしまう。

0の0乗の正解がネット検索しても見つからないので作成した。 | 子育ての達人 | 妊娠・出産・育児・子育ての毎日を楽しく

数学は、こうした問題にも必ず単一の結論を定める。0の0乗は、「代数学的には未定義である」というのが正しい。 なぜかというと、上記サイトで示されているようにゼロ除算を行っているから。ゼロ除算がなぜ未定義かというと、実数体の定義に含まれていないから。

この結論について、数学をきちんとやっている人間なら一切の異論は差し挟めない。いくつかの公理から出発したある世界を共有している限り、みな同じ結論にたどり着く。 これと異なる結論を導きたければ、前提となる世界をつくりかえなければいけない。

逆に言えば、その結論がおかしいと感じるのであれば、無数に都合のいい世界を構築することもできる。 この世界では0の0乗は1であるとした方が便利なのでそのようにする、と表明して、その世界で議論することもできる。 数学の授業で平行線は無限に延長しても交わらないと習ったが、こんなものはおかしい。きっとどこかで交わるはずだ。そう思うのであれば、それを公理とした新しい数学の世界を作る自由もある。 そうした公理を共有さえすれば、新しく作った世界における結論もまた共有できる。

国際的にある論を表明しようとすると、その論に触れる人々のバックグラウンドというのは無数にふくれあがる。 しかし、数学を用いれば、背景知識を単一の体系に絞ることができる。これが強い。むしろこれなくしては、万人に受け入れられる理論を構築することなど不可能であるともいえる。

学問というのは、「巨人の肩に乗る」と言われるように、先人たちが積み上げてきた正しさの山の上に、新たに正しさを積み上げていく営みの上に成っている。 その営みを正しく行っていくために、数学というのは非常に都合の良い性質を持っている。

だから彼らは数学を使う。これは合理的な選択だし、もし数学を使いたくないのであれば、何か他の形で正しさの連鎖を担保できなければいけない。

数学語を意識していない人々の存在

こうした数学語がもたらすメリットを、理解している人もいればいない人もいる。

誤解を恐れず荒っぽく言うと、ある種の「数学バカ」の生産性は高くない。個人の主観だというエクスキューズは入れておく。

彼らは数学的手法にあまりに偏って議論を重ねてきてしまったがために、仮説の創造や思考のスキップができない。証明で組み上げた土台の外に踏み出していくことに、失敗に対する恐れに似た抵抗を感じる。

だから、頑なに言及を避けたり、あるいは手っ取り早い仮説としての誰かの言説に飛びつき、そこから演繹してしまったりする。当然、前提が間違っていれば演繹の結果も誤ってしまうことになるのだが。

現実には、数学がそのまま適用できる範囲は多くない。むしろ、無数にある仮説の取捨選択こそが大事で、それは数学的にはどうしようもない。

確かなものなどないけれど、あるかぎりの材料を集めて、比較的確かそうなものを思考の足がかりにしていくような、霧の中でもがくような努力が必要になってくる。 「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」を無数かつ並列に展開していかなければいけない。これは現実の問題に向き合う人々の宿命であるといえる。

しかし、彼らにとって往々にして仮説というのは所与のものになってしまっている。教科書から仮説が与えられて、それは正しいものであると受け入れて、思考というのはその前提から導くものだと考えてしまっている。その結果、トンデモな学説や、新興宗教の類にはまり込んでしまったりもする。

ある仮説から思考を展開していくと、現時点の諸問題が簡潔に美しく説明できてしまうように見える。だから、仮説は正しいのだ。そういった論理で仮説に対する確信を深めてしまう。その仮説から他にも演繹を広げていきたくなってしまう。 元となる問題を説明できる仮説が他にいくつあるかも、そもそも数学からはみ出した場における演繹がどの程度信頼できるかも不明であるのにもかかわらず、だ。

あくまで数学語は数学語であり、土俵を共有するために必要になる道具にすぎない。そこを拡大解釈することは、往々にして危険な盲信に繋がる。

数学語が鼻についていた頃の自分は、この種の人々を(主にネットで)見てきた結果、数学的なるものになんとなく嫌な匂いを嗅ぎ取ってしまっていたのだろう。

数学というチャンネルを持つこと

しかし、そういう偏った思考のもとで議論する人々は決して多くない。

誰かが議論において数学を持ち出すとき、大抵はその人が非数学的な議論に慣れていないか、あるいはそもそもの議論に数学的な正しさが要求されているか、どちらかであるように思う。

前者であれば、前述したような仮説自体を生むことの意義を伝える努力をすればよいし、後者であれば逆に彼らがいう数学を用いることの合理性に耳を澄まさなければいけない。

数学という隔離された綺麗な世界の中だと、彼らとも意義深い意見交換ができるし、またそこから学ぶこともできる。 それは決して文系的な議論を捨てることではなく、頭のなかに異なるチャンネルを新たに作るということである。

プログラマはよく、「コードを読むと書き手の人柄が分かる」などと言う。 外国人が書いたソースコード中の外国語のコメントは読めなくても、コード中の処理の書き方の癖から、その人が今までどういうプログラミング言語を学んできて、どういうデザインパターンにかぶれているかがわかる。 これもまた、自然言語に依存しない意思疎通のチャンネルの例であるといえる。

数学にももちろんこれがあって、数学が絡む学術論文を呼んでいると、記号の使い方や用いる論法で出身分野が予想できたりする。 自分にはまだそれほど経験がないのであまり精度が良くないが、先輩や教授たちはかなり敏感にそうした言外のものを嗅ぎとって論文を読み進めていた。

そのようにして数学を捉えると、過去の自分も数学の意義については納得してもらえるのではないかと思う。

必要性を理解していてもなかなか頭に入ってこないのは困りものだが、それはまあ数学がないと泳げない環境に放り込まれてしばらく溺れていれば覚える、としか言えない。